内山彦次郎 (UCHIYAMA Hikojiro)
内山 彦次郎(うちやま ひこじろう、寛政9年(1797年)‐元治元年5月20日 (旧暦)(1864年6月23日))は、幕末の大阪西町奉行所与力である。
筆頭与力とする説もある。
名は之昌(ゆきまさ)。
能吏であり経済官僚としての実績が大きいが、新撰組に暗殺されたと伝わる最期の為に評価のポイントがずれている。
人物・略歴
内山彦次郎は大阪町奉行与力を代々務めた家系の7代目に当たる。
与力としての内山は、他の経済官僚と同じく物価統制に携わっており町奉行へ提出した報告書なども残されている。
中でも彼は「政府による市場介入」の積極論者であったという説がある。
これは公儀「お買上米」の存在からも見て取れる。
彼の在職以前から大坂において江戸の商人が投機目的で幕府の認可を得た買占め行為を行い米価を不当につり上げていた。
全国的な影響力から江戸の物価統制を中心に考えるのは当然であり官僚としての内山もこれを支持している。
しかし、在地の流通たちが痛めつけられた結果、大坂を含め畿内一円での米価の価格は異常なまでに跳ね上がった。
一部の特権階級のため莫大な資金を投入しての市場介入に公正な取引を監視する筈の与力たちが見て見ぬふりをする。
天保8年(1837年)、大塩平八郎の乱は、このような役人の態度を憎んだ大塩の暴発でもあった。
この際に内山は美吉屋五郎兵衛方に潜伏していた大塩平八郎父子を発見、包囲した1人であると伝えられる。
互いに地付きの与力である内山は大塩と近所であり知らない仲ではなかった。
森鴎外が書き残した書『大塩平八郎』によれば、当時与力見習であった内山は大塩に憎まれていたとされている。
大塩と内山との間に実際に確執があったのかどうかは不明だが、文政13年(1831年)に大塩が内山に宛てた書簡が大阪府守口市盛泉寺に残されているとのこと。
暗殺とその犯人説
元治元年5月20日(1864年6月23日)、内山彦次郎は何者かによって暗殺された。
場所は天満橋とも天神橋 (大阪府)とも言われる(両者とも大阪市)。
内山は首を落とされ、斬奸状(生前の罪状=殺す理由を記した文書)とともに晒された(一説に遺体の上に斬奸状を置かれただけ、とも)。
一般に犯人は新選組の沖田総司・永倉新八・原田左之助・井上源三郎の4人とも、これに近藤勇や土方歳三が加わっていたともされる。
新選組が内山を暗殺した動機は、前年、新選組が大阪出張をした際に小野川部屋力士らと乱闘騒ぎを起こした「大阪角力事件」で内山が小野川部屋に協力した疑いがあったことやその吟味が高圧的で近藤との間に確執が起きたための遺恨であるとか、内山が倒幕派志士と結託して米価や油の値を吊り上げていると疑った上での天誅であると言われている。
この説の根拠としては、元新選組幹部・永倉新八が晩年に口述した『新選組顛末記』や、新選組が屯所として利用した京都西本願寺の寺侍・西村兼文が残した『新撰組始末記』などが挙げられる。
しかしながら現在、新選組犯行説には異論を唱える向きも多い。
根拠とされる書物も、後に発見された永倉新八『浪士文久報国記事』(『顛末記』以前に書かれた日記)では「内山暗殺事件」について触れておらず、また『顛末記』には永倉自身ないしはそれが連載されていた「小樽新聞」編集者によると見られる脚色のあとがあり、一方『始末記』の西村兼文は新選組に悪意を持っていたため、共に信憑性を欠くというわけである。
事実、当時の京都・大阪ではいわゆる「尊王攘夷・倒幕」の嵐が吹き荒れており、倒幕派志士による奉行所役人など幕吏の暗殺事件も多発していたことから、そうした志士による犯行説も捨て切れない。