内田吐夢 (UCHIDA Tomu)

内田 吐夢(うちだ とむ、本名・常次郎、1898年4月26日 - 1970年8月7日)は、大正・昭和期の映画監督である。
日本映画の創生期から戦後にいたるまで、骨太な作品を撮りつづけた「巨匠」である。
息子に元「東映生田撮影所」所長の内田有作、映画監督の内田一作らがいる。

来歴・人物

4月26日、岡山市に菓子店の息子として生まれる。

14歳。
中学校を2年で中退し、横浜市のピアノ製作所に奉公に出る。
横浜の不良少年だった頃のあだ名がトムであり、後に芸名とする。

22歳。
横浜に創立されたばかりの大正活映に入社し、トーマス・栗原監督の助手を務める。
その後、俳優も兼ねるようになり、『喜劇・元旦の撮影』に主演したのをはじめ、何本かの映画に出演する。
同期に岡田時彦がいる。

24歳。
牧野教育映画に移り、『噫小西巡査』を衣笠貞之助と共同監督し監督デビューする。
しかし、その後、旅役者の一座に混じって放浪生活に入り、旅役者や肉体労働者として浅草などで生活する。
この体験は彼の作風に大きな影響を与えた。

28歳。
日活京都大将軍撮影所に入社。

29歳。
監督に昇進し、喜劇を中心に撮る。

30歳。
入江たか子をスカウトし、『けちんぼ長者』を撮る。

31歳。
小杉勇を主役に『生ける人形』を撮る。
これ以来、小杉の強烈なキャラクターを効果的に使い、当時流行していた、左翼思想を盛り込んだ「傾向映画」の傑作を次々と生み出していく。

34歳。
村田実、伊藤大輔 (映画監督)、田坂具隆らが、日活から独立し、新映画社を設立したときに行動を共にするが、程なく解散する。

35歳。
新興キネマに移るが、やがて日活撮影所に移る。
そこで、『限りなき前進』、『土』など、後世に最高傑作と評せられる作品群を生み出す。

43歳。
会社の方針と合わず日活を去り、新会社設立の失敗の後、満州にわたり、満州映画協会に在籍する。

47歳。
日本敗戦後も帰国出来ず、共産主義革命が進行する中国に残留。

56歳。
復員し東映に入社。

57歳。
『血槍富士』を撮り、監督業に復帰。

以降、『大菩薩峠 (小説)』、『宮本武蔵映画』のような大作を発表する一方、アイヌの問題を扱った『森と湖のまつり』、部落問題を底流に描いた水上勉のサスペンス『飢餓海峡』など、現代社会の弱者を鋭く照射した作品も発表し続けた。

67歳。
興行上の理由から東映が『飢餓海峡』の本編を無断でカット(大部分の上映館では、この版で公開)したことに抗議し、クレジットから名前を外すよう要求。
この騒動がもとで、後に東映を退社した。

『宮本武蔵』の続編で伊藤大輔の脚本を得た『真剣勝負』のロケ中に倒れ入院。
いったんは再起し撮影を続行。

8月7日、逝去。
享年72。

[English Translation]