冷泉隆豊 (REIZEI Takatoyo)
冷泉 隆豊(れいぜい たかとよ、永正10年(1513年)- 天文 (元号)20年(1551年))従五位下 左衛門少尉。
戦国大名大内氏の家臣。
冷泉興豊の子。
冷泉元豊、冷泉元満の父。
家系は大内氏の庶流にあたる。
母方を公卿の冷泉家とする祖先が、母姓を冒して冷泉姓を称したことにはじまる。
冷泉家は藤原為家の子の為相を祖とする和歌の師範家の流れをくむ家柄。
大内義興に早くから仕え、その没後は子の大内義隆に仕えた。
大永七年(1527)安芸仁保島、国府城に戦う。
天文十年(1541年)には安芸国の銀山城主となる。
天文十一年、義隆に従い、毛利元就らと共に敵対する尼子氏の出雲に遠征するが、全軍敗走した。
同十二年より伊予で戦う。
その後は主君・義隆や相良武任らの文治派と陶晴賢らの武断派の衝突が深刻化すると、両者の暴発を回避しようと、その仲介に奔走する。
晴賢が謀反を起こす直前、義隆に晴賢を誅殺するように進言したが、容れられなかったと言われている。
1551年、晴賢が謀反を起こすと義隆とともに逃走した。
義隆が自害を覚悟するとその介錯を務めた。
自身も陶軍の中に突撃して果敢に討ち死にしたと言う。
その忠臣ぶりは、高く評価されたといわれている。
隆豊は武勇に秀でていただけではなく、和歌にも堪能であった智勇兼備の士と言われている。
子の冷泉元豊は毛利氏に仕え、門司城の城代をつとめたが、1562年、大友氏の攻撃により討死した。
その跡は元豊の弟の冷泉元満が継ぎ、水軍の将として活躍した。
辞世の句
「みもや立つ 雲も煙もなか空に さそいし風の 末ものこさず」