別所吉治 (BESSHO Yoshiharu)
別所 吉治(べっしょ よしはる、天正7年(1579年) - 承応3年7月13日 (旧暦)(1654年8月25日))は江戸時代の大名。
但馬国八木藩主。
別所重宗の子。
正室は山崎片家の娘。
豊後守。
兄弟に別所宗治、別所重家(旗本、新井別所氏祖、家禄美濃5郡1000石)、別所信範、福島正之。
重宗の子と言われているが、実は別所長治の子で、天正8年(1580年)に三木城が落城したとき、家臣に連れられて落ち延びたという説がある。
天正19年(1591年)、重宗の死により家督を相続する。
文禄元年(1592年)の文禄の役や文禄3年(1594年)の伏見城築城など、秀吉の家臣として尽力した。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍に属して丹後国田辺城 (丹後国)攻撃に参加した。
戦後、なぜか徳川家康から所領は安堵されたが、これは吉治の伯母が、徳川秀忠の乳母であった為といわれる。
また、弟の別所孫次郎が東軍に与した功によるとも。
慶長20年(1615年)、大坂の役の戦功により丹波国内に5000石を加増されて石高は2万石となった。
しかし寛永5年(1628年)、仮病で参勤を怠り、その裏で鷹狩をしていたことが発覚。
幕命により改易されて、大名家としての別所氏は滅亡した。
慶安元年(1648年)、息子の別所守治は赦免され、のち1000俵を与えられた。
子孫は700石の旗本として存続した。
吉治は息子の下で余生を過ごした。