前田正名 (MAEDA Masana)
前田 正名(まえだ まさな、嘉永3年(1850年)- 大正10年(1921年))は、明治の官僚。
男爵。
北海道阿寒町(現在の釧路市阿寒町)に財団法人前田一歩園の基を設立し、阿寒湖周辺の森林を購入し保護を図るなど、自然保全に貢献した。
父は薩摩藩医前田善安の6男。
兄に前田正穀(献吉)がいる。
明治期における殖産興業政策の実践者としてしられ、「布衣の農相」とも呼ばれた。
妻は大久保利通の姪・いち(利通の妹・石原みねの次女)。
経歴
鹿児島に生まれる。
内務省勧農局に出仕し、1869年(明治2年)には在フランス総領事モンブラン伯爵に随行してパリへ留学。
しばらくは総領事館となったモンブラン邸に寄宿した。
1876年(明治9年)に帰国し、内務省御用掛、翌年には三田育種場を開設。
1878年(明治11年)にはパリ万国博覧会 (1878年)事務館長、1881年(明治14年)大蔵省・農商務省 (日本)の大書記官になって理事官に進む。
在職中に国内産業の実情を調査して、殖産興業のために報告書を作り、「興業意見」全30巻とまとめて提出。
明治21年6月、山崎直胤の後任で山梨県知事として赴任。
在職期間が短いため目立った政策は見られないが、栗原信近らと殖産興業を推進し、道路整備や河川改修、甲州葡萄の普及などを行っている(後任は中島錫胤)。
翌1890年(明治22年)2月には農商務相公務局長と東京農林学校長を兼任し、1890年(明治23年)農商務次官となるが、農商務相陸奥宗光と対立して下野。
同年9月に貴族院議員。
その後、元老院議官を務め、五二会など興した。
1898年(明治31年)宮崎県の開田事業とともに、釧路で前田製紙合資会社(現在の日本製紙釧路工場の前身)を設立、1907年(明治40年)阿寒湖畔に居を構え、同年、武富善吉とともに釧路銀行を設立、北海道東部の開発に貢献した。
死の同日、男爵を授けられた。