副島種臣 (SOEJIMA Taneomi)
副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日 (旧暦)(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の武士・佐賀藩士、官僚、政治家。
勲等は勲一等。
爵位は伯爵。
通称は二郎。
号は蒼海、一々学人。
書家としても優れた作品を残している。
経歴
父は佐賀藩の藩校・弘道館 (佐賀藩)の教授であった国学者・枝吉南濠。
兄は国学者・枝吉神陽。
のちに同藩の副島利忠の養子となる。
父・兄の影響により、早くから尊王攘夷思想に目覚める。
弘道館で学び、この間江藤新平や大木喬任と交わる。
嘉永3年(1850年)、兄の枝吉神陽が中心となって結成した楠公義祭同盟に加わる。
嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。
この間に矢野玄道らと交わる。
元治元年(1864年)、佐賀藩が長崎市に設けた洋学校・致遠館の英学生監督となり、英語などを学ぶ。
慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩し、勤王の志士として活動するが、捕らえられて佐賀に送還され謹慎処分を受ける。
明治維新後は、慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝悌と『政体書』起草に携わる。
明治2年(1869年)に参議、明治4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件に携わる。
明治6年(1873年)2月には、前々年に台湾で起きた宮古島民殺害事件(→台湾出兵を参照)の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京市へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈、および交渉にあたった。
この間に清朝高官と漢詩の交換を行い、高い評価を得る。
明治6年10月の征韓論争に敗れたためいったん下野して、板垣退助らと共に民撰議院設立建白書を提出した。
しかしその後の自由民権運動には参加しなかった。
西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在していた。
明治11年(1878年)、宮内省に出仕して一等侍講。
明治17年(1884年)、伯爵。
明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院 (日本)副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣 (日本)を務める。
『副島種臣全集』3巻が(島善高編 慧文社)近年刊行され、伝記に丸山幹治(丸山眞男の父)『副島種臣伯』がみすず書房で復刻されている。
(現在はオンデマンド版)と、大橋昭夫 『副島種臣』(新人物往来社 1990年)がある。
なお、評論家で常葉学園大学特任教授の副島隆彦は傍流の子孫にあたる。
書家としての副島種臣
書家としての業績は『蒼海 副島種臣書』(石川九楊編集 二玄社 2003年)に詳しいが絶版。
主要な作品は『書の宇宙24―書の近代の可能性 明治前後』(石川九楊編集 二玄社 2000年)で紹介されている。
平成17年(2005年)には、日本放送協会の番組「新日曜美術館」で、書家としての側面をクローズアップした特集が放映された。
『芸術新潮 特集「明治維新を筆跡でよむ 志士たちの書」』(1999年9月号新潮社)にも紹介されており、また『蒼海先生篆書帖』(西東書房 1972年)もある。
草森紳一が、文芸雑誌「すばる (雑誌)」(集英社)に「詩人副島種臣の生涯」(1991年7月号-96年12月号、65回) と「文學界」(文藝春秋)で「薔薇香処 副島種臣の中国漫遊」を(2000年2月号-03年5月号、40回)と書き続けたが未刊行である。
2007年から、『表現』(京都精華大学表現研究機構)で「捕鼠 明治十一年の文人政治家副島種臣の行方」が始まっていたが創刊号と第2号のみで、絶筆となった。
亡くなる少し前に、全体の四分の一にも達していないと語っている。
椎根和『オーラな人々』(茉莉花社、2009年)より
2006年に佐賀県立美術館で、2007年に五島美術館で、没後百年記念特別展『蒼海 副島種臣-全心の書―展』が催された。
石川九楊、草森紳一、島善高が寄稿した図録が佐賀新聞社で製作された。
改訂版が郷土出版社の出門堂で再刊された。
代表作は「帰雲飛雨」「紅葉館」(佐賀県立美術館所蔵)。
「神非守人 人実守神」「春日其四句」など多数。
栄典
明治14年(1881年) 勲一等旭日大綬章受章
明治38年(1905年) 勲一等旭日桐花大綬章受章