加藤泰 (KATO Tai)

加藤 泰(かとう たい、1916年8月24日 - 1985年6月17日)は、日本の映画監督。
時代劇や任侠映画の監督として活躍。
代表作に『沓掛時次郎 遊侠一匹』、『明治侠客伝 三代目襲名』、『緋牡丹博徒』シリーズなどがある。

来歴・人物

兵庫県神戸市の貿易商の家に生まれる。
母方の叔父に映画監督の山中貞雄がいる。

1937年、東宝撮影所に入社。
八木保太郎に師事し、理研映画、満州映画協会を八木とともに転々とし、記録映画を作る。

1946年、帰国。
大映京都撮影所の助監督部に入社し、少年時代映画のとりことなるきっかけを作った伊藤大輔 (映画監督)監督作品につくこととなる。
また、黒澤明監督『羅生門』では、印象的な予告編を手掛けている。
しかし、大映の組合書記長を務めたことでレッド・パージの対象となり同社を解雇され、独立プロの宝プロダクションに転職。
1951年に時代劇『剣難女難』で劇映画デビューする。

1956年、東映京都撮影所に移籍し、白塗りのスターが活躍するのが主流だった時代に、あえて主要キャストがノーメイクで出演する『風と女と旅鴉』、長谷川伸の名作を甦らせた『瞼の母』、そしてミュージカルやSF、リアルタイムの時代批判などさまざまな要素を詰め込んで「東映時代劇のヌーヴェルヴァーグ」と絶賛された異色作『真田風雲録』など、東映の看板スターだった萬屋錦之介と組んで数々の傑作を監督する。

東映が集団抗争時代劇から任侠路線へと移行する時期には、タイトルが加藤泰自身の代名詞ともなる最高傑作『沓掛時次郎 遊侠一匹』をものにし、新選組内部の抗争を描いたリアリズム時代劇『幕末残酷物語』などを撮り、そして、やくざの生きざまを独特の美意識と叙情で描いてその後の任侠映画に多大な影響を与えた『明治侠客伝 三代目襲名』を監督する。

その創作活動は1967年から1970年にピークを迎え、藤純子主演の『緋牡丹博徒』ではシリーズ中屈指の傑作である『お竜参上』を監督し、安藤昇を主演に迎え『男の顔は履歴書』や『懲役十八年』などのアクション映画を成功させ、大映の任侠スターだった江波杏子を東映に迎えて一種異様な怨念に彩られた復讐物語『昭和おんな博徒』を手掛けた。
更に野村芳太郎、山田洋次ら松竹の映画監督たちとの交流から、佐藤允が復讐の連続殺人鬼を演じる異色サスペンス『皆殺しの霊歌』を監督した。

1970年代には松竹で大作シリーズ『宮本武蔵』『人生劇場』『花と龍』のほか、カルト映画の傑作とされる『江戸川乱歩の陰獣』を、東宝で『日本侠花伝』と『炎のごとく』を監督した以外は、テレビ時代劇の脚本が中心となる。
1981年、佐渡の鬼太鼓座メンバーの若さと情熱を描いて「究極のドキュメンタリー」を目指した『ざ・鬼太鼓座』を監督。
加藤にとっては満映以来の記録映画であり、同時に彼の遺作ともなった。
この作品は制作会社の事情により加藤の生前に日の目を見ることはなく、1994年にユーロスペースで開催された特集上映「加藤泰 男と女、情感の美学」で初公開された。

極端なまでのローアングルとクローズアップを特徴とする独自な映像スタイルは、加藤泰映画の代名詞として知られている。
ローアングルについてはアスファルト舗装されている公道を掘り返してカメラを据え、電線が写った際には「電線を切れ」と言ったという凝り性。
また、走る列車をその下からとらえた映像は、伝説化している。

晩年は、叔父・山中貞雄の業績をまとめるなど日本映画関係の著書を多数残している。
次回作として井原西鶴原作の『好色五人女』映画化のシナリオ作業に取りかかるが、1985年に急逝した。

その独自のスタイルを貫いた映画は、死後も多くの映画ファンや評論家に絶賛され、特集上映もしばしば開催されている。

[English Translation]