勇山文継 (ISAYAMA no Fumitugu)
勇山 文継(いさやま の ふみつぐ、宝亀4年(773年)-天長5年10月26日 (旧暦)(828年12月6日))は、平安時代初期の官人・漢詩人。
河内国出身。
『新撰姓氏録』の記事を信じるならば、饒速日命の三世孫にあたる出雲醜大使主命の末裔とされるが、
しかしながら、『日本後紀』弘仁元年10月21日 (旧暦)戊子(810年11月21日)条によれば、同族の勇山家継らとともに連のカバネを与えられている。
更に、それ以前の姓に関する記載がないために、それ以前は姓を持たなかったと見られており、実際には白丁(庶民あるいはそれに近い身分)の出身であったと考えられている。
その前半生は不明である
が、その後の経歴から当時白丁の子弟でも入学が許されていた大学寮文章生出身であったとされている。
前述の勇山連賜姓の際には従八位下であった。
その後、間もなく従六位下紀伝博士となる。
翌弘仁2年1月29日に外従五位下に叙せられて、2月13日には紀伝博士在任のまま、大学助と相模国掾を兼務した。
弘仁6年(815年)本貫地が平安京右京に移される。
弘仁7年6月15日(816年7月13日)、文継が嵯峨天皇に『史記』を進講した功績を称えて従五位下に叙せられた。
淳和天皇の時代には安野氏宿禰の姓を授けられ、従四位下東宮学士となった
他、勅撰漢詩集3つの撰者をいずれも務めており、『文華秀麗集』・『経国集』に1首ずつ採録されている。
天長5年10月26日に東宮学士在任のまま56歳で死去した。