北条兼時 (HOJO Kanetoki)

北条 兼時(ほうじょう かねとき、生年未詳 - 弘長3年6月13日 (旧暦)(1263年7月19日))は、鎌倉時代中期北条氏の一門。
父は鎌倉幕府第2代執権・北条義時の子である北条有時。
通称は駿河四郎。
建長4年(1252年)から将軍・宗尊親王に仕えた。
弘長3年(1263年)6月13日に死去。

北条 兼時(ほうじょう かねとき、文永元年(1264年) - 永仁3年9月18日 (旧暦)(1295年10月27日))は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。
父は第8代執権・北条時宗の異母弟である北条宗頼。
弟に北条宗方がいる。

弘安3年(1280年)、長門探題であった父の死に伴い長門国守護となる。
翌年には異国警固番役を任じられて播磨国に赴いた。
弘安の役から3年後の弘安7年(1284年)、摂津国守護と六波羅探題南方に任じられた。

正応6年(1293年)1月、探題職を辞して鎌倉に帰還したが、前年の外交使節到来で再び元寇の危機が高まったため、同年3月、執権北条貞時の命を受け、軍勢を引き連れて九州に下向した。
兼時の九州下向をもって初代鎮西探題とする見方もある。
兼時が九州博多に到着した直後に鎌倉では平禅門の乱が起こり、5月3日に事件を報ずる早馬が博多に到着し、九州の御家人達が博多につめかけ、兼時はその対応に追われた。

翌永仁2年(1294年)3月、兼時は「異国用心」のため、筑前国と肥前国で九州の御家人達と、とぶひ(狼煙)の訓練を行い、軍勢の注進、兵船の調達などを行って異国警固体制を強化した。
しかし予想していた元軍の襲来はなく、兼時は永仁3年(1295年)4月23日、鎮西探題職を辞して再び鎌倉に帰還した。
翌年には北条実政が鎮西探題に派遣された。
兼時は評定衆の一人に列せられて幕政に参与したが、鎌倉帰還の5ヶ月後、9月18日に死去した。
享年34。

経歴

※日付=旧暦

年月日不詳、修理亮に任官。

1284年(弘安7)11月3日、幕府の六波羅探題南方として赴任。

1287年(弘安10)3月12日、3月12日、従五位下に叙し、越後守に遷任。
8月、六波羅探題北方に異動。

1293年(正応6)3月7日、鎮西探題に異動。

1295年(永仁3)4月、鎮西探題退任。
5月11日、評定衆と就る。

[English Translation]