北条幻庵 (HOJO Genan)

北条 幻庵 / 北条 長綱(ほうじょう げんあん / ほうじょう ながつな)は、戦国時代 (日本)の武将である。
北条早雲の3男。
箱根神社別当。
金剛王院院主。

経歴

若い頃に僧籍に入り、箱根権現寺に入寺、のちに京都・三井寺でも修行をした。

相模国に戻ってからも還俗せずに、相模中郡と武蔵小机領の領地支配を担当した。

長男の三郎(実子)は夭折し、1569年に武田信玄との駿河国(静岡県)の蒲原城の戦いにおいて子の綱重・長順を失い、北条氏康の7男上杉景虎を養子に迎えて家督を譲り、隠居して幻庵宗哲と号した。
三郎(景虎)が越後の上杉謙信の養子となった後は、北条氏綱の四男・北条氏堯に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・北条氏隆に継がせた。

「北条氏所領役帳」によれば、五千貫文を超える家中最大の所領を領有した。

1589年に死去、享年97となるが、(これは北条五代記の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正年間と推定している。これが事実とすれば享年は10年以上若くなる)一説に1501年生まれという説がある。
幻庵の死から8ヵ月後に後北条氏は豊臣秀吉に攻められ滅亡する。

北条氏の長老的性格で、馬術や弓術に優れ、時には一軍を率いて合戦に参加した。
作法伝奏を業とした伊勢家の後継者として文化の知識も多彩で、和歌・連歌・茶道・庭園などに通じた教養ある人物であった。

手先も器用であり、鞍鐙作りの名人としても知られ、「鞍打幻庵」とも呼ばれた。

また、氏康の娘が嫁ぐ際に「幻庵おほへ書」という礼儀作法の心得を記した書を記している。

北条五代の菩提寺である早雲寺の庭園をつくるなど、現在でもその才を偲ぶことができる。

初代北条早雲から5代北条氏直までの全ての当主に仕え、記録の残っている家臣では唯一、後北条氏の最初から最後までを見た人物である。

[English Translation]