北条貞将 (HOJO Sadayuki)
北条 貞将(ほうじょう さだゆき)は、鎌倉時代末期の武将。
執権北条氏の一門 北条氏 (金沢流)、北条貞顕の嫡男。
屋号を用いて金沢(かねさわ)貞将とも呼ばれる。
文保2年 (1318年)に評定衆となり、引付衆頭人などを務める。
この頃に正室を迎えているか、正室が誰であるかは不明。
正中 (日本)元年(1324年)の正中の変後、六波羅探題南方となり上洛する。
父・貞顕の根回しもあり、元徳2年(1330年)に探題職を辞任して鎌倉市に帰還、引付頭人に任じられる。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の挙兵に呼応して、上野国の御家人新田義貞の率いる新田軍が鎌倉に侵攻すると、幕府軍の大将として鶴見の戦い、鎌倉へ敗退した後には巨福呂坂を防備する。
巨福呂坂で敗れると、得宗北条高時に挨拶するために東勝寺 (鎌倉市)に引いた。
最後の突撃を敢行しようとする直前、高時からそれまでの忠義を賞されて、六波羅探題の両探題職と相模国の守護職を与えられた。
元弘3年(1333年)5月22日、新田軍に攻め入って戦死。
その最期は軍記物語『太平記』においても壮烈な描写で記されている。
経歴
※日付=旧暦
年月日不詳、従五位に叙し、左馬助に任官。
1324年(正中 (日本)元)、越後守に転任。
11月1日、六波羅探題南方に赴任。
1327年(嘉暦2)、武蔵守に転任。
1330年(元徳2)閏6月28日、六波羅探題退任。
月日不詳、引付頭人と就る。
以後没年月日まで在任。
1333年(元弘3)5月21日、執権北条守時より北条家のあとを託され、相模守を称する。