北条貞顕 (HOJO Sadaaki)
北条 貞顕(ほうじょう さだあき)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。
鎌倉幕府第15代執権(在職期間:1326年3月16日 (旧暦) - 3月26日 (旧暦))。
北条氏 (金沢流)北条顕時の嫡男。
金澤(金沢)貞顕(かねさわ さだあき)とも。
生涯
鎌倉幕府の要職を務める北条氏金沢流の後継者として、に出仕。
父の顕時は霜月騒動で連座しており、貞顕の出仕にも影響を与えたと考えられている。
中務大輔補任、25歳で北条宗宣の後継として六波羅探題南方に就任して上洛、京都以西の責任者となる。
霜月騒動の影響で昇進が遅れていた金沢流は、執権北条貞時の抜擢によって幕府中枢へのエリートコースに登る事になる。
1305年(嘉元3年)には鎌倉で、連署で貞顕の舅に当たる北条時村が、貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人により討たれる嘉元の乱が起こる。
六波羅探題への第一報はでは「時村が誅された」とあった。
二月騒動を連想した貞顕の居る六波羅探題南方では北方からの攻撃を恐れて戦々恐々であった。
その後時村の誅伐は北条宗方の陰謀であったとする「関東御教書」が早馬により届く。
1308年(延慶元年)に六波羅探題南方を辞任して鎌倉に帰還し、翌年寄合衆となる。
には六波羅探題北方として再び上洛。
その間、自身は文献の写本にはげみ、金沢文庫の充実をはかっている。
、得宗貞時が死去。
連署に就任。
1326年(嘉暦元年)、14代執権北条高時が病気で辞職して出家すると、貞顕も政務の引退と出家を望むが、慰留を命じられる。
後継を定めない高時の出家は、次期執権に高時の子の北条邦時を推す内管領の長崎氏と、高時の弟の北条泰家(のちの時興)を推す外戚の安達氏が対立する得宗家の争いに発展する。
3月16日、貞顕は内管領長崎高資により、邦時成長までの中継ぎとして擁立されて15代執権に就任する。
貞顕の執権就任に反対した北条泰家は出家し、これにより貞顕暗殺の風聞まで立ったため、貞顕は同月26日に執権職を辞職し出家する(法名は崇顕)。
16代執権には北条守時が就任した。
一連の騒動は嘉暦の騒動と呼ばれる。
1333年(元弘3年、正慶2年)、後醍醐天皇の倒幕軍に味方した足利尊氏の京都の六波羅探題攻略のあと、新田義貞率いる軍が鎌倉を攻める。
貞顕は最後の当主高時と北条一門とともに北条氏の菩提寺である鎌倉・東勝寺 (鎌倉市)で自刃した。
享年56。
金沢文庫の古文書の中には、彼の書状が642通現存する。
年譜
※ 日付=旧暦
1294年(永仁2年)左衛門尉
1296年(永仁4年)従五位下に叙爵、左近将監
1300年(正安2年)従五位上
1302年(乾元元年)、7月7日六波羅探題南方、8月11日中務大輔に任官
1304年(嘉元2年)、越後守に転任。
1307年(徳治2年)、正五位下に昇叙。
越後守如元。
1308年(延慶元年)11月、六波羅探題退任。
1309年(延慶2年)、寄合衆、引付頭人。
1310年(延慶3年)6月25日、六波羅探題北方として再度赴任。
右馬権頭
1313年(正和2年)、武蔵守に遷任。
1314年(正和3年)11月、六波羅探題退任。
1315年(正和4年)7月11日、連署と就る。
1322年(元亨2年)、修理権大夫に転任。
1326年(嘉暦元年)3月16日、執権と就る。
3月26日、執権退任。
出家、法名:崇顕。
1333年(元弘3年、正慶2年)5月22日、鎌倉幕府滅亡に際し東勝寺で北条高時らと自刃。
享年56。
左衛門尉
従五位下に叙爵、左近将監
従五位上
、7月7日六波羅探題南方、8月11日中務大輔に任官
、越後守に転任。
、正五位下に昇叙。
越後守如元。
11月、六波羅探題退任。
、寄合衆、引付頭人。
6月25日、六波羅探題北方として再度赴任。
右馬権頭
、武蔵守に遷任。
11月、六波羅探題退任。
7月11日、連署と就る。
、修理権大夫に転任。
3月16日、執権と就る。
3月26日、執権退任。
出家、法名:崇顕。
5月22日、鎌倉幕府滅亡に際し東勝寺で北条高時らと自刃。
享年56。