北条高時 (HOJO Takatoki)
北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉幕府第14代執権(在職 1316年 - 1326年)。
得宗家嫡流。
第9代執権北条貞時の3男。
生涯
延慶 (日本)2年(1309年)に元服し、小侍奉行などを務める。
応長元年(1311年)に父貞時、叔父で第10代執権北条師時が死去した。
正和5年(1316年)、一族や内管領長崎氏ら身内人らに後見され、14歳で第14代執権職となる。
鎌倉時代後期の幕政では北条家の家政を務める内管領である長崎氏が権勢を強め、高時の頃には長崎高資とその父長崎高綱が影響力を持っていた。
高時は既に亡き日蓮の弟子の日朗に殿中にて諸宗との問答対決の命を下した。
日朗は高齢のため代わりに門下の日印(1264年~1328年)を討論に向かわせた。
文保2年(1318年)12月30日から翌元応元年(1319年)9月15日にかけて、いわゆる鎌倉殿中問答(弟子の日静が記録に残す)を行わせた。
時の征夷大将軍は宮将軍の守邦親王である。
結果、日蓮門下の日印(彼の弟子が日静、孫弟子が日陣(法華宗陣門流)と日伝 (曖昧さ回避)(日蓮宗六条門流))が諸宗をことごとく論破し、題目宗の布教を高時は許した。
在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起きた。
正中 (元号)元年(1324年)、京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変では、倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれた。
後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、計画に加担した者も処罰された。
正中 (日本)3年(1326年)には、病のため24歳で執権職を辞して出家する。
後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こる。
3月には北条貞顕が執権に就任するがすぐに辞任した。
4月に北条守時が就任することで収拾する。
元弘元年(1331年)には、高時が円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起こる。
8月に後醍醐天皇が再び倒幕を企てて笠置山へ篭った。
河内では楠木正成が挙兵する元弘の乱が起こる。
軍を派遣して鎮圧させ、翌1332年3月にはまた後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基らを処刑する。
皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立てる。
元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵する。
幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利尊氏を京都へ派遣する。
高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って六波羅探題を攻略。
関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。
新田軍が鎌倉へ侵攻すると、高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺合戦へ退いた。
北条一族や家臣らとともに自刃。
享年31。
人物
古典『太平記』や、『増鏡』、『保暦間記』、『鎌倉九代記』など後世に成立した記録では、闘犬や田楽に興じた暴君、暗君として書かれる傾向にあり、江戸時代から明治にかけての史学でもその傾向があった。
『保暦間記』では高時は病弱であったとされ、『金沢文庫古文書』には身内から見た高時の人物像が記されている。
夢窓疎石らの禅僧とも親交を持ち、仏画などにも親しんでいる。
年譜
※ 日付=旧暦
1309年(延慶 (日本)2)、元服。
1311年(応長元)10月、従五位下に叙し、左馬権頭に任官。
1316年(正和5)7月10日、執権と就る。
1317年(文保元)3月10日、従四位下に昇叙し、相模守に遷任。
1319年(文保3)1月、修理権大夫に転任。
1326年(正中 (日本)3)2月13日、出家。
崇鑑を号す。
1333年(元弘3)5月22日、自刃。
享年31。
法名:月輪寺殿崇鑑。