千利休 (SEN no Rikyu)
千利休(せんのりきゅう、せんりきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日 (旧暦)(1591年4月21日))は中世末期、戦国時代 (日本)、安土桃山時代の茶人。
何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。
出自・系譜
父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母は宝心妙樹。
「千家系譜」、「千利休由緒書」によると利休の祖父は足利義政の同朋衆だった千阿弥(専阿弥・新田氏里見氏の一族田中氏の出身)といい、その名をとって千姓としたとされている。
ただしこの説の初出である「千利休由緒書」は、利休の曾孫である江岑宗左によるものであり、利休の同時代史料には見当たらないところから内容を疑問視するむきがある。
名・号
「阿弥」号は当時の時宗門徒などには極めてありふれたものであったから必ずしも同朋衆に結びつくものではない。
幼名は与四郎(與四郎)で、のち、戒名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。
広く知られた利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士である。
考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある。
いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。
宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。
しかし宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時は諱の「宗易」を使用し、後に宮中参内に際して字の「利休」を居士号としたと考えるのが自然であろう。
こう考えれば宮中参内の2年前、1583年に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。
号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。
なお『茶経』の作者とされる陸羽にちなんだものだという説も一部にあるようである。
いずれにせよ「利休」の名はその人生の終焉での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは「宗易」として送っている。
茶聖とも称せられる。
栄達
和泉国の国堺市の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。
家業は納屋衆(倉庫業)。
若年より茶道に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。
堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。
織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えた。
1587年の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。
1585年10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。
また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。
秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、碌も三千石を賜わるなど、茶人としての名声の絶頂にあった。
賜死
1591年、利休は突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられる。
前田利家や、利休七哲のうち古田重然、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。
七十歳であった。
切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。
死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。
首は賜死の一因ともされる大徳寺山門上の木像に踏ませる形でさらされたという。
利休が死の前日に作ったとされる辞世の句が残っている。
人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
死罪の理由は定かではなく、大徳寺山門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため(自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた)。
安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)疑いを持たれた。
天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った。
秀吉と茶道に対する考え方で対立した。
秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、利休は「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、秀吉はその事を深く恨んでいた。
などさまざまな説が立てられている。
また、豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る政治闘争に巻き込まれたため、という説もある。
利休が秀吉の政事に大きく関わったことは、大友義鎮が大坂城を訪れた際、豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易に」と耳打ちされたことなどからも伺え、そのように利休が深く政務に関わることに反発し利休の失脚を望む勢力は確かに存在したと言われる。
死後
後継者としては先妻宝心妙樹の子である嫡男千道安と、後妻千宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名であるが、この他に娘婿の万代屋宗安、千紹二の名前が挙げられる。
ただし道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。
なお宗恩は袱紗を現在の形に定めるなど、自身茶の湯に精通し、利休のよい補佐役、理解者であったといわれる。
豊臣家の茶頭としての後継は古田織部であったが、そのほかにも織田長益、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を嗣いだ。
利休死後数年を経て(文禄4年頃)徳川家康や前田利家の取りなしにより道安と少庵は赦免され、道安が堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶した。
このため少庵の興した分家である京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。
また薮内流家元の藪内家と千家にも、この時期姻戚関係が生じる。
三千家は利休の養子となった宗恩の連れ子千少庵の系譜であり、大徳寺の渇食であったその息子 千宗旦が還俗して家を再興し、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。
このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。
その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。
利休忌はグレゴリオ暦の3月27日および3月28日に大徳寺で行われる。
利休の茶の湯
「わび茶」の完成者としての利休像は、『南方録』を初めとして後世の資料によって大きく演出されてきたものである。
偽書である『南方録』では、新古今和歌集(実際は新古今和歌集には見当たらない)の藤原家隆の歌「花をのみ まつらん人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや」を利休の茶の心髄としており、表面的な華やかさを否定した質実な美として描かれている。
しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎており、かえって利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。
同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟である山上宗二による「山上宗二記」が第1級の資料とされている。
この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。
つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。
利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえる。
その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。
名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。
利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。
草庵茶室の創出である。
それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。
なかでも特筆されるべきは「窓」の採用である。
師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。
このことにより茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。
後には天窓や風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となった。
設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。
利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。
また「露地」も利休の業績として忘れてはならない。
それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。
このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言えるだろう。
「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえるだろう。
足跡
大阪府堺市宿院には利休の茶室跡と伝えられる場所があり、市の史跡として保護されている。
京都市上京区の晴明神社内に利休屋敷跡の碑が建つほか、堺の百舌鳥野に「もずの屋敷」、京都五条堀川辺りに「醒ヶ井屋敷」、同じく東山大仏前に「大仏屋敷」、大徳寺門前に「大徳寺屋敷」、大阪府島本町山崎に「山崎屋敷」を構えていたと伝えられる。
現在でも「利休饅頭(同種の菓子に利久饅頭の別名もあり)」というお茶受けのお菓子が各地にある。
作品
利休はさまざまな新しい試みを茶道に持ち込んだ。
楽(らく)をはじめとする職人を指導して好みの道具を作らせるとともに、みずからも茶室の設計、花入・茶杓の製作など道具の製作にも熱心であった。
紹鴎の時代にあってもまだ煩雑であった茶会の形式をさらに簡略化するとともに、侘び道具を製作・プロデュースして、多くの支持者・後継者に恵まれたことが、利休を侘び茶の完成者と言わしめる由縁である。
茶室・妙喜庵 : 京都府大山崎町所在。
利休作といわれる。
国宝。
黄金の茶室 : 豊臣秀吉の命により製作。
MOA美術館、大阪城に復元・展示がある。
書状「武蔵あぶみの書(織部あて)」「末吉勘兵衛宛書状」「松井佐渡守宛書状」など
書状「寄進状」
書「孤舟載月」
竹花入「園城寺」「尺八」
茶杓「なみだ」「面影」
千利休を題材にした作品
小説
秀吉と利休(野上彌生子)
千利休とその妻たち(三浦綾子)
映画
千利休 本覺坊遺文(1989年、東宝)
監督:熊井啓
原作:井上靖
出演:奥田瑛二、三船敏郎、萬屋錦之介、加藤剛、芦田伸介ほか
利休(1989年、松竹)
監督:勅使河原宏
原作:野上彌生子
脚本:赤瀬川原平
出演:三國連太郎、三田佳子、松本幸四郎 (9代目)、中村吉右衛門 (2代目)、田村亮 (俳優)ほか
テレビ
千利休 〜春を待つ雪間草のごとく〜
脚本:星川清司