原田直次郎 (HARADA Naojiro)

原田 直次郎(はらだ なおじろう、文久3年8月30日 (旧暦)(1863年10月12日) - 明治32年(1899年)12月26日)は、洋画家。
父は兵学者の原田一道、兄は地質学者の原田豊吉。
兄の遺児で、のちに元老西園寺公望の秘書となる原田熊雄を引き取っていた。
また、森鴎外の小説『うたかたの記』の主人公、巨勢のモデルでもある。

生涯

1863年8月30日、蛮書和解御用出役の原田一道と妻あいの次男として、江戸小石川の母の実家で誕生した。
同年、遣欧使節に任命された池田長発に父が随行し、そのまま4年間留学した。
開明的な父のもとで直次郎は、早くから外国語教育を受けた。
1870年には大阪開成学校に入学してフランス語を学び、1873年には、神田の東京外国語学校 (旧制)フランス語科に入学した。
1881年に外国語学校を卒業し、8月に大久保さだと結婚した。

11歳の頃から、洋画家の山﨑成章につき、20歳で当時洋画家の最高峰であった高橋由一の門に入った。
そして1884年、21歳でドイツに渡り、兄原田豊吉の友人画家ガブリエル・マックスに師事し、ミュンヘン・アカデミー(美術学校)に聴講生として登録。
私費留学中は、ドイツ官学派の手厚い写実を身につけた。
同時にドイツ浪漫派主義の作風に影響を受け、世紀末趣味にも強い関心を示した。
またミュンヘンでは、陸軍省派遣留学生の森鴎外幅の広い文芸活動と交際や画学生ユリウス・エクステルと交友を結ぶ。
1886年夏、下宿先の1階にあるカフェ店で働くマリイと同棲し、避暑をかねて写生旅行に出かけた。
10月頃、欧州出張中に美術事情の視察も命じられた文部科学省専門学務局長の浜尾新を案内した。
11月22日に妊婦のマリイを残してミュンヘンを発った(マリイは直次郎を見送った)。
スイスを経由し、ヴェネチアでは長沼守敏に、ローマでは松岡寿に会い、翌年パリに移った。
パリでは、短期間ながらエコール・デ・ポザールの聴講生になり、5月にフランスを後にした。

1887年7月、東京にもどった。
しかし国内は、洋画排斥の嵐のまっただ中にあった。
10月に洋画科を置かないまま東京藝術大学が設立されると(ただし開校したのは1889年2月)、11月に直次郎は岡倉天心とフェノロサの支持母体で国粋主義的な龍池会に入会した。
同月19日、華族会館での龍池会例会で、フェノロサの絵画改良論(洋画排斥論)と狩野派を批判する講演をした(「絵画改良論」として『龍池会報告』第31号に収録)。
その後も、龍池会とその改組された日本美術協会にしばらく留まり、日本画の振興を目的とした美術展覧会に油彩を出品した。
1888年に「東洋画会」特別会員になり、その機関誌に洋画を紹介。
そうした日本画壇での啓蒙活動は、当然のように異分子として孤立し、報われることが少なかったものの、直次郎は頑張った。
なお、東京美術学校が学生を受け入れる1ケ月前の1889年1月、本郷6丁目の自宅アトリエで画塾「鐘美舘」を開いた(無料)。
1894年に閉鎖されるまで小林万吾、伊藤快彦、和田英作、三宅克己、木下藤次郎などを指導した。

西洋画の団体「明治美術会」に活動の拠点を移し、仲間とともに東京美術学校に洋画科を開設するよう運動した。
1890年、唯一洋画家も出品できる官展、博覧会日本の博覧会の歴史(第三回)に歴史画「騎龍観音」と「毛利敬親肖像」を出品。
前者は、大作で人々の注目を集めたにもかかわらず、何も賞を受けなかった(2007年重要文化財に指定)。
後者は、妙技三等賞にとどまった。
原田は、洋画家の代表として審査官であったものの、審査委員長が洋画排斥の後ろ盾九鬼隆一であり、洋画に厳しい審査結果となった。
また同年、東京大学文学科教授で明治美術会賛助会員の外山正一が日本画・洋画にかかわらず、最大の問題として画題の貧困と思想の欠如とを指摘し、とりわけ直次郎の「騎龍観音」をやり玉に挙げた。
その指摘は、多くの反発を呼び、中でも鴎外が外山を強く批判した。

1893年頃、直次郎は発病し、しだいに歩行が困難になり、やがて寝たまま制作するような状態となった。
そうした中、画壇にも大きな変化が起こった。
1894年、第六回明治美術会展では、新会員黒田清輝・久米桂一郎などの外光表現が注目をあび、翌年の第七回展では、黒田など天真道場出身の画家が多く出品し、原田など古参会員の暗い画風との対比が明瞭になった。
当時のジャーナリズムは、その対比を旧派と新派の対立として扇動的に伝え、旧派が批判された。
1895年、直次郎は第四回内国勧業博覧会に歴史画の大作「素尊斬蛇」を出品。
1897年、第八回明治美術会展に最期の大作「海浜風景」を出品。
弟子の木下藤次郎によれば、その作品も寝たまま、記憶のみで描いたという。
1898年9月、療養のため、神奈川県子安村に転居。
しかし翌年12月26日、東京帝国大学第二医院で没した。
享年36。
12月28日、天王寺に葬られ、竜蔵と原田熊雄の2児名が署せられた。

鴎外による人物評

鴎外によれば、直次郎は、留学中も帰国後もヨーロッパの色に染まらなかったが、留学先のドイツでたいそう師友に愛されていた。
主に自然児として愛されていた。
また、恬淡無欲の人であった。
画塾「鐘美舘」では、謝金を受け取らなかった。
洋画の需要が最も少なかった時代、政財界人につてを求めて肖像画をかかせてもらったりすることがなく、むしろ日本赤十字社歴史により昭憲皇太后の肖像画を描く最終候補者3人の1人に選ばれながら辞退した(金500円)。

なお鴎外は、『原田直次郎』(1889年12月)を次の段落で結んだ。
「私の友人にも女房持のものは少なくない。」
「しかし、その家庭をうかがって見て、実に温かに感じたのは、原田の家庭である。」
「鐘美舘がまだ学校であった時、原田はその奥の古家に住んでいた。」
「(中略)。」
「原田と細君と子供四人と、そこに睦まじく暮らしていた。」
「私が往けば子供は左右から、おじさんと呼んで取り附いた。」
「細君はいつも晴々した顔色で居られた。」
「原田が病気になってからも、永の年月の間たゆみなく看護せられた。」
「殊に感じたのは、原田が神奈川に移る前に、細君が末の子を負って、終日子安村附近の家を捜して歩かれたという一事である。」
「思うに原田は必ずしも不幸な人ではなかった。」

年譜

1863年8月30日、原田一道と妻あいの次男として、江戸小石川の母の実家で誕生。

1868年6月、岡山に転居。

1869年3月、上京し、浅草の池田侯の邸に住む。

1870年3月、大阪に転居し、大阪開成学校に入学してフランス語を学ぶ。

1873年9月、東京の駿河台に転居し、10月に神田の東京外国語学校 (旧制)フランス語科に入学。

1874年頃、山﨑成章に洋画を学ぶ。

1881年、外国語学校を卒業、同年8月に大久保さだと結婚。

1882年、天絵学舎で高橋由一に師事し、洋画を学ぶ。

1884年2月、絵を学ぶため、妻子を残してドイツに渡った。
ミュンヘンに住み、兄原田豊吉の友人画家ガブリエル・マックスに師事し、またミュンヘン・アカデミーに登録。
ドイツ人画学生ユリウス・エクステルと親交を結ぶ。

1886年3月25日、森鴎外が下宿を訪問。
8月、マリイと同棲し、また写生旅行に出かけた。
10月頃、欧州美術事情視察の文部科学省専門学務局長、浜尾新を案内。
11月22日、ミュンヘンを発ち、スイスとイタリアをへてフランスに向かった。

1887年5月にフランスのマルセイユを発ち、7月に東京着。
10月、洋画科を置かないまま東京藝術大学が設立。
11月に龍池会でフェノロサを批判する講演をした。

1888年、「東洋画会」特別会員になり、その機関誌に洋画を紹介。
本郷にアトリエを新築。

1889年、本郷アトリエで画塾「鐘美舘」を開いた。

1890年、第三回博覧会日本の博覧会の歴史に「騎龍観音」を出品。
雑誌『国民之友』の表紙、挿絵を担当(以後、継続)。

1891年、森鴎外「文づかひ」の収録本の表紙絵と挿絵を描いた。

1895年、第四回内国勧業博覧会に「素尊斬蛇」を出品。
病床での制作と伝えられている。

1897年、第八回明治美術会展に「海浜風景」を出品。

1898年9月、神奈川県子安村に転居し、静養。

1899年12月26日、東大病院で没。

1909年11月28日、東京藝術大学で原田直次郎没後十周年記念遺作展覧会が開催。

1910年1月、「原田先生記念帖」刊行。

2002年、「靴屋の親爺」が重要文化財に指定。

2007年、「騎龍観音」が重要文化財に指定。

[English Translation]