古川節蔵 (Setsuzo Furukawa)
古川 節蔵(ふるかわ せつぞう、幼名・岡本亀五郎。通称・岡本周吉、のち古川節蔵、古川正雄。ペンネーム・岡本博卿など。1837年(天保8年)3月4日) - 1877年(明治10年)4月2日)は、明治期の教育者。
福澤諭吉の弟子として、日本の近代教育の礎を築いた教育者の一人。
慶應義塾初代塾長。
また明治維新には民間人として榎本武揚に加わり戊辰戦争を戦った。
生涯
広島県西中国山地に奥深い山県郡 (広島県)北広島町生まれ。
庄屋の三男に生まれた。
青年期に医学を志し、広島市に出て漢学を学ぶ。
1856年(安政3年)、今度は大阪市に出て緒方洪庵の適塾に入門。
蘭学、兵学を修めた。
この頃は岡本周吉と称した。
1858年(安政5年)、この適塾で塾長を務めていた福澤諭吉が、中津藩の命令で江戸に蘭学の塾を開くことになり、同窓の中から同行者を募った。
周吉は同行を希望、江戸へ下る原田磊蔵と三人連れで同年秋江戸に入る。
築地鉄砲州(現在の明石町 (東京都中央区))で諭吉と同居し諭吉が開いた蘭学塾「一小家塾」(後の慶應義塾)の第1期生となった。
著書翻訳を相当数手掛けた。
1860年(万延元年)、岡本博卿の名で訳した「万国政表」は日本統計学史上珍しい文献と言われ、オランダ語から訳された、日本最初の世界統計書とされる。
1871年(明治4年)12月、日本の中央統計機関として院表課が設立されたが「政表」の文字は既に古川によって使用されていた。
1868年(慶応4年)慶應義塾初代塾長に就任。
しかし福澤の世話で幕府の旗本・古川家の養子となると名を古川節蔵と改めた。
戦いを好まない諭吉が止めるも聞かず、旧幕府軍・榎本軍に加わる。
明治維新、戊辰戦争時には榎本武揚らと共に函館市五稜郭に立て篭り新政府軍に抵抗。
幕府海軍に出仕して「軍艦高雄 (軍艦)」(第二回天)の艦長となる。
1869年(明治2年)には高雄艦長として宮古湾海戦に榎本武揚、土方歳三らと参加した。
しかし、途中暴風雨に遭い機関を損傷、速度が上がらず「ストーンウォール号(甲鉄)奪還作戦」の奇襲には参加出来ずに追撃された。
田野畑村沖羅賀浜へ座礁させ自沈。
高雄を捨て総員退去を命じ、上陸後降伏し新政府軍に捕えられた。
言うことを聞かなかった節蔵だが、福澤諭吉はそれでも可愛がり、入牢した節蔵を何度も訪ね面倒をみた。
その後許され今度は古川正雄と改名。
明治新政府の海軍や工部省に出仕し海軍兵学校 (日本)教官などを務めた。
1870年(明治3年)~1872年(明治5年)には、我が国最初の小学校教科書『絵入り智恵の輪』を発刊した。
この書物の中で日本で初めて「背広」という言葉を使用したと言われる。
1873年(明治6年)ウィーン万国博覧会開催に際し同地へ派遣された。
1875年(明治8年)津田仙らと共に楽善舎を組織、盲聾唖者の教育を発起した。
中村正直、岸田吟香、山尾庸三、ヘンリー・フォールズらと東京盲亞学校(現筑波大学附属視覚特別支援学校)の前身・訓盲院を創設した。
晩年は失意の人として41歳の若さで病死した。
著作には他に『洋行漫筆』、『ちゑのいとぐち』、『絵入り智恵の環』などがある。