吉川経盛 (KIKKAWA Tsunemori)

吉川 経盛(きっかわ つねもり、正応3年(1290年) - 正平 (日本)13年/延文3年(1358年))は南北朝時代 (日本)の武士。
父は吉川経高。
子に吉川経秋。
正室は吉川経茂女。

1319年、父の隠居にともない家督を継いだ。
1333年に鎌倉幕府は滅亡し、天皇を中心とした建武の新政が始まった。
しかし、時代錯誤の政策を次々と打ち出す後醍醐天皇の親政によって政権は崩壊。
その後の騒乱において、1335年に吉川経盛は守護・武田信武に従い、南朝 (日本)方・熊谷蓮覚の矢野城を攻撃するなどした。
そして足利直義にも属して、石見国の南朝方とも干戈を交えた。

その南北朝の騒乱の最中、吉川経盛の従兄弟・吉川経兼とその子の吉川経見は南朝方に帰順。
観応の擾乱では足利直義方に味方して、足利尊氏方の吉川経盛には従わなかった。
経兼・経見父子はその活躍により、南朝の後村上天皇により経兼は駿河権守、経見は左衛門尉の官位を与えられている。

また吉川経盛の弟・吉川経長も南朝方に参加し、後醍醐天皇の綸旨を奉じて、伯耆国船上山に参上している。
その子吉川実経も新田義貞の御教書を奉じて、九州へと敗走した足利尊氏方の残党討伐に参加している。

経盛は一族の身勝手な行動に憂慮し、1350年に嫡子の吉川経秋に家督を譲り、1358年に病死した。

一族の相克により吉川氏はその勢力を低下させることとなった。

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