吉田兼右 (YOSHIDA Kanemigi)
吉田 兼右(よしだ かねみぎ、永正13年4月20日 (旧暦)(1516年5月21日) - 元亀4年1月10日 (旧暦)(1573年2月12日))は、堂上家(家格は半家 (公家)、卜部氏)である吉田家の8代当主。
卜部氏24代。
有職故実書籍『官職難儀』・神道書籍『兼右卿記』の著作者。
経歴
実は、少納言(非参議正三位)・清原宣賢(別名:船橋宣賢、非参議・吉田兼倶の三男)の次男。
実子が無く断絶した、神祇大副兼侍従・吉田兼満の養子となった。
神祇大副兼左衛門督・吉田兼見や、神龍院梵舜の父。
官途は、侍従・神祇大副兼右兵衛督・従二位。
吉田家の当主だった吉田兼満が大永5年(1525年)突然家を出奔したため、従弟にあたる兼右が10歳の若さで後を継ぐ。
父宣賢が後見役となって唯一神道の道統を継承した。
祖父兼倶以来の神道説を宣揚して、積極的に全国の神社・神職に対して宗源宣旨や神道裁許状を発行する。
それとともに、地方のオトナ衆・氏子との交流を図って吉田家の家門拡大に努めた。
特に周防の大内氏・越前の朝倉氏・若狭武田氏に招かれ神道伝授を行った。
元亀4年正月10日、58歳で没した。
彼の遺骸は遺言により、吉田神社の近くに社壇を建てて唯神霊神と称して祀られた。