吉田清成 (YOSHIDA Kiyonari)
吉田 清成(よしだ きよなり、1845年3月21日(弘化2年2月14日_(旧暦))- 1891年(明治24年)8月3日)は、幕末の薩摩藩。
明治期の官僚。
元の名は巳之次。
通称は太郎。
留学中の変名は永井五百助。
来歴・人物
1865年(慶応元年)に藩の留学生としてイギリス・アメリカ合衆国に留学、最初は航海学を学ぶが、後に政治学経済学に転じた。
1870年(明治3年)の帰国後に大蔵省に出仕して租税権頭・大蔵少輔を歴任する。
1872年(明治5年)に外債募集のためにイギリス・アメリカに派遣されるが、2年後にアメリカ滞在のまま同国駐在全権公使に任命された。
1878年(明治11年)に締結された吉田・エバーツ条約で知られている。
1879年(明治12年)、ユリシーズ・グラント前アメリカ大統領の来日決定に伴って一時帰国、前大統領の接待にあたった。
1882年(明治15年)に外務大輔に任命されて帰国、井上馨外務卿の元で条約改正にあたった。
1886年(明治18年)に農商務大輔に転じて、そのまま初代次官に任じられた。
1887年(明治20年)に子爵に叙せられて、元老院議官に転出、翌年には枢密顧問官となる。
だが、病を得て47歳の若さで急死した。
生前、多数の手紙・日記・記録などを遺しており、これら2,700通は「吉田清成文書」として京都大学に保管されている。