吉田経房 (YOSHIDA Tsunefusa)
吉田 経房(よしだ つねふさ、永治2年(1142年) - 正治2年閏2月11日_(旧暦)(1200年3月27日)は、平安時代末期・鎌倉時代初期の公卿。
藤原北家勧修寺流の弁官藤原光房の子。
母は権中納言藤原俊忠の娘(藤原俊成の姉妹)。
子に吉田定経・吉田時経・滋野井公時室・平時実室がいる。
源頼朝の鎌倉政権(後の鎌倉幕府)より初代関東申次に任ぜられた。
生年を永治3年(1143年)とする説もある。
甘露寺家の祖である吉田家を興した。
生涯
わずか9歳で従五位下侍従に任ぜられた。
翌年に急死した兄・藤原信方に代わって伊豆国国司を遥任とは言え、7年間務めている。
その後、後白河天皇の姉である上西門院や妃の建春門院の側近を務めた。
また六条天皇・高倉天皇両天皇の蔵人を務めた事から、平清盛の知遇を得る。
その後、平氏政権の実務官僚として各弁官(右少弁以外を全て歴任)や内蔵頭を歴任。
治承三年の政変に絡んだ人事異動により蔵人頭に昇進した。
やがて安徳天皇が即位して高倉上皇が院政を開始(当時後白河法皇は幽閉中であった)。
その際は、蔵人頭と新院の院別当を兼務した。
ところが養和元年(1181年)に参議に昇進し、2年後に公卿に加わった頃から、一転して源頼朝の友人の一人として経房の名前が突然浮上する事になる。
今まで平氏政権の下で順調に出世し、反平家の行動とも全く無縁であった彼がなぜその地位を手に入れたのかは謎とされているが、
有力説とされているのは、経房は兄とともに2代にわたって伊豆守の地位にあったことから、頼朝の義父で伊豆国の在庁官人であった北条時政との関係があり、その縁で挙兵前後から秘かに頼朝と連絡を取り合っていたという説である。
しかしながら、真相は不明である。
真相はどうあれ、「うるわしい人」(『平家物語』)・「廉直な貞臣」(『吾妻鏡』)と頼朝が評したとされる話も決して大袈裟ではない。
元暦元年(1184年)に頼朝が朝廷に対して経房の権中納言昇進を求めて受け入れられたのを機に頼朝からの朝廷や院への要請は多くが経房を経由して行われるようになる。
これが鎌倉幕府における関東申次の始まりであると考えられている。
守護・地頭の設置や源義経の追討などの重要な要請は実際には経房を経由して朝廷に申し出がなされた。
文治元年(1185年)に議奏・大宰権帥、建久元年(1190年)に民部卿に任命されると、翌年には正二位に叙された。
この間に頼朝の許しを得て平維盛の未亡人(藤原成親の娘)を後室としたという。
建久6年(1195年)には中納言、建久9年(1198年)には権大納言にまで昇進する。
しかし、翌年に頼朝が没すると経房もまた体調を崩すようになった。
正治2年(1200年)に出家して経蓮と号するが間もなく病死した。
日記として『吉記』(きちき/きっき)が伝わっている。
初めは邸宅のあった通りより、「勘解由小路」と名乗っていたが、後に京の東郊・吉田に別邸を建てたために家名を「吉田」と改めたとされる。
後に家名を甘露寺に改めたものの、多くの分家が堂上家として後世に名を残した。