和田正信 (WADA Masanobu)
和田正信(わだ まさのぶ、? - 元和 (日本)2年(1616年))は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士。
父は和田信維、弟に和田庄兵衛。
通称・夫兵衛、官位は壱岐守。
『因府録』所収の和田系図には信也と記されている。
経歴
文禄元年(1592年)、父・信維の死去に伴い、和田家を継ぐ。
池田輝政に仕え、慶長5年(1600年)8月、岐阜城攻めの軍勢に加わり、戦功を為した。
関ヶ原の戦い後、主君の池田輝政が52万石を領して播磨国姫路城主となると家禄4600石が与えられた。
慶長8年(1603年)、幼い池田忠継に従って備前国岡山藩に移ると、家老に取り上げられ政務を執った。
元和 (日本)2年(1616年)、死去、法名は宗光院。
没年については『因府年表』を参考にしたが、これには異説も存在しており、『鳥取藩史』着座家伝には寛永の初年に没したとある。
正信には実子がいなかったため、荒尾成房三男の和田三正を養子にして、家督を継がせた。