四条隆貞 (SHIJO Takasada)
四条 隆貞(しじょう たかさだ、生年不詳- 建武 (日本)元年(1334年)12月 (旧暦))は、南北朝時代 (日本)の吉野朝廷に仕えた公卿。
父は四条隆資。
兄に四条隆量、弟に四条隆俊・四条有資らがいる。
法名は崇義院といい、養子に安王丸がいた(『久米田寺文書』)。
官位は従四位下・左少将・参議(『尊卑分脈』)。
また少なくとも1333年(元弘3年)11~12月頃和泉国国司であったことが確認できる(『久米田寺文書』)。
護良親王の側近として常にその活動に随従し、令旨の奉者に度々なっている。
1333年(元弘3年/正慶2年)1月19日 (旧暦)の天王寺の戦いでは「大将軍」として楠木氏の軍勢などを率いて幕府軍と戦った(『楠木合戦注文』)。
建武の新政が始まると6月13日 (旧暦)、父の隆資とともに兵を率いて入京した(『太平記』)が、護良親王が失脚して鎌倉に押送されると、その余党を取り除こうとした建武政権の手により1334年(建武 (日本)元年)12月に殺害された。
『尊卑分脈』はこれを「打死」と表現する。