坂上石楯 (SAKANOUE no Iwatate)
坂上石楯(さかのうえのいわたて)は、日本の奈良時代の人物である。
旧仮名遣いでの読みは「さかのうへのいはたて」。
はじめ氏を石村(いわれ)といい、姓(カバネ)は村主であったが、後に氏を坂上氏、姓を忌寸に改めた。
妻は紀多継、息子に氏成、娘に秋穂がいた。
従五位下、勲四等。
764年に一兵士として藤原仲麻呂の乱の鎮定に出動し、藤原仲麻呂(恵美押勝)を斬る功績を立てた。
その功により同年大初位下から一気に従五位下に進み、765年に勲四等を授かった。
外衛府将監となり、765年に氏姓を坂上忌寸に改めた。
766年に出羽国介、774年に中衛府将監。
779年までに死んだ。
事績
石村氏は、三河国碧海郡に定着した渡来系氏族で、坂上氏とともに東漢氏(倭漢氏)に属した。
石楯はその一族に連なり、石楯自身が三河出身だった可能性も高い。
天平宝字8年(764年)9月恵美押勝(藤原仲麻呂)は乱を起こしたが、失敗して琵琶湖西岸で追い詰められた。
18日に押勝の軍が壊滅し、押勝は妻子三、四人とともに船を江に浮かべたが、石楯が捕らえてこれを斬った。
妻子と従者34人もみな斬られた。
石楯は、押勝の首を京に運んだ。
石楯はこのとき軍士、つまり一兵士であった。
その功績により、同年10月7日に大初位下石村村主石楯は従五位下を授けられた。
天平神護元年(765年)1月7日には、勲二等から六等までの功賞があった中で、石楯は勲四等を与えられた。
同年4月26日に、左京の人、外衛将監従五位下の石村村主石楯ら3人と、参河国(三河国)碧海郡の人、従八位上石村村主押縄ら9人が、坂上忌寸の姓を与えられた。
この記事により、石楯が三河国碧海郡の石村氏と同族関係にあり、かつ自らは左京の人であったことがわかる。
藤原仲麻呂の乱では坂上苅田麻呂も功を立てた。
石村村主は、地位を向上させつつあった遠縁の坂上氏の下に組み込まれつつ、姓を良いものに改めたことになる。
天平神護2年(766年)5月10日、百済文鏡が出羽国守に任命されたのと同日に、石楯はその介になった。
宝亀5年(774年)5月に、中衛将監になった。
宝亀10年(779年)5月1日に、妻の紀朝臣多継、息子の坂上忌寸氏成、娘の秋穂の三人が、故出羽介従五位下勲四等坂上忌寸石楯大夫の厚恩に報じるために、大般若波羅蜜多経1部600巻を写経しておさめた。
そのうちの巻176が唐招提寺に残り、跋語によってその事情が伝わる。