坂上苅田麻呂 (SAKANOUE no Karitamaro)
坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ、神亀4年(727年)- 延暦5年1月7日 (旧暦)(786年2月14日))は奈良時代の武人。
従三位。
中衛府中将。
左京大夫。
坂上犬養の子。
坂上田村麻呂の父。
坂上氏は中国の後漢の霊帝 (漢)の流れを汲むという東漢氏に繋がる家系で代々弓馬の道をよくする武門の一族として、数朝にわたり宮廷を守護した。
天平宝字年中に近衛兵令外官少尉に任じられる。
天平宝字8年(764年)9月、太師(太政大臣)藤原仲麻呂(恵美押勝)が謀反を起こすという密告があり、孝謙上皇は仲麻呂派の淳仁天皇の中宮院(御所)に少納言山村王を遣わし、皇権の発動に必要な玉璽と駅鈴を回収させた。
仲麻呂は子の藤原訓儒麻呂を遣わし玉璽と駅鈴を奪おうとした。
山村王は急報を送り、坂上苅田麻呂は将曹牡鹿嶋足とともに勅命を受け馳せかけて、訓儒麻呂を射殺した。
その後、仲麻呂は平城京を脱出し、近江国で戦いに敗れて滅びた。
(藤原仲麻呂の乱)
この功により苅田麻呂は従四位下勳二等を授かり、大忌寸の姓(カバネ)を賜る。
中衛少将に補任され、甲斐国国司を兼ねる。
宝亀元年(770年)称徳天皇(孝謙上皇が重祚)が崩御すると、道鏡の姦計を告げて、その排斥に功績があり、正四位下に進み、陸奥国鎮守将軍となった。
中衛中将、安芸国守、丹波国守などの国司を歴任。
天応 (日本)元年(781年)正四位上を授かり、右衛士督となる。
延暦元年(782年)氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に連座して職を解かれるが、間もなく許され復職する。
伊予国守、備前国守の国司を歴任。
延暦4年(785年)従三位に進み、上表して宿禰の姓(カバネ)を許される(坂上宿禰苅田麻呂。さかのうえ・の・すくね・の・かりたまろ)。
同年、左京大夫に任じられ、右衛士督と下総国守を兼ねた。
延暦5年(786年)死去。