堀口貞満 (HORIGUCHI Sadamitsu)
堀口 貞満(ほりぐち さだみつ、永仁5年(1297年) - 延元3年/建武 (日本)5年(1338年))は、鎌倉時代末期から南北朝時代 (日本)の武将。
清和源氏の一門で上野国に土着した新田氏の支族。
上野国新田郡(新田荘)の東南端にある堀口郷(現在の群馬県太田市堀口町)を支配していた。
生涯
永仁5年(1297年)の生まれ、父は堀口貞義(従四位下美濃国守)。
元弘3年(1333年)、新田義貞の挙兵に参加し、巨福呂坂(こぶくろざか)から鎌倉を攻略するなど活躍。
建武 (日本)元年(1334年)論功で正六位上大炊助に叙任される。
さらに建武2年(1335年)には従五位上美濃守となった。
以後、新田義貞の重臣として活躍。
足利尊氏が、北条時行の挙兵(中先代の乱)に乗じて建武の新政に叛旗を翻すと、矢作川での戦いで足利尊氏軍と戦ったと『梅松論』に記されている。
建武3年(1336年)に西国で勢力を盛り返した足利尊氏が京都を占拠すると、新田義貞の軍に従い、後醍醐天皇らとともに比叡山に逃れた。
このとき、足利尊氏から後醍醐天皇へ密使がきて後醍醐天皇が新田義貞に無断で足利尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとした。
そのため、貞満が出発直前の後醍醐天皇に、「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上。
後醍醐天皇は皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任することで新田軍が官軍であることを保証してから下山した。
これは、『太平記』でも有名な一節となっている.
その後、新田義貞に従って、子の堀口貞祐らとともに越前国及び美濃各地で戦い、延元3年/建武5年(1338年)に美濃から越前に進軍中に没した。
その他
史跡
群馬県太田市堀口町(旧新田郡尾島町堀口)には、堀口館跡があり、それを示す木柱が早川の堤防脇に立てられている。
子孫
美濃国本巣郡(岐阜県の揖斐川上流)には、堀口一族の子孫が土着し、戦国時代には齋藤氏や明智氏に仕えたという。
現在では、旧鎌倉街道沿いの埼玉県ときがわ町(旧玉川村)、東松山市付近に子孫が住み、地元の名士などとなっている。