壬生基修 (MIBU Motoosa)
壬生 基修(みぶ もとおさ、天保6年3月7日 (旧暦)(1835年4月4日) - 明治39年(1906年)3月5日)は、幕末から明治にかけての公卿。
庭田重基の三男で、壬生道吉の養子。
基修を「もとなが」と記すものもあるが、これは間違い。
「もとおさ」が正しい。
七卿落ちの一人である。
文久3年(1863年)、公武合体派の策略によって長州に下向。
さらに太宰府に移されるが、王政復古 (日本)後に帰京。
会津戦争の時の越後口総督府参謀、越後府知事、東京府知事、元老院 (日本)議官、貴族院 (日本)議員などを歴任。
明治28年(1895年)には、平安神宮初代宮司となった。