多久安順 (TAKU Yasutoshi)

多久 安順(たく やすとし、永禄6年(1563年) - 寛永13年(1636年))は、戦国時代 (日本)から江戸時代の人物。

肥前国龍造寺氏の一門である龍造寺四家の1つ多久氏の祖。
龍造寺隆信の末弟の龍造寺長信(水ヶ江龍造寺家)の嫡男。
初名、龍造寺家久。
鍋島直茂の次女千鶴を嫁に迎えた。
初代多久邑主となり、多久長門安順と名乗る。
のちに養子の多久茂辰(養子にしてのち義絶した後藤茂富(龍造寺家均と妹の間の子)の子)が継いだ。
他の養女として伊勢菊(神代常利室)がいる。

文禄・慶長の役に参加、その引き揚げの時、朝鮮から同行した陶工の李参平らを多久で預かり、有田焼の源流を作った。
関ヶ原の戦いでは、主家に従い西軍に属しながら、徳川家康に大量の米を送った。
慶長12年(1607年)に龍造寺高房が死去し龍造寺氏本家が断絶すると、それを引き継いだ鍋島氏に重用され、親族と同等の待遇を得、佐賀藩請役を務めた。

寛永11年(1634年)、高房の子龍造寺伯庵が龍造寺季明と名乗り、徳川家光に佐賀藩領は龍造寺氏のものであると主張した時、安順が出府して幕府に鍋島氏の支配の正当性を主張した。

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