多利思比孤 (Tarishihiko)

多利思北孤は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である。
『隋書』では他の中国史書が「倭」としている文字を「俀」と記述している。

概要

開皇20年(600年)と大業3年(607年)に隋に使者(遣隋使)を送ったという。


「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。

妻子

「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は雞彌、後宮に600-700人の女がおり、太子の名は利歌彌多弗利という。

領地

「夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢東高西下都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」とあり、里数を知らず日で距離を測る。
国境は東西を旅するのに五ヶ月、南北を旅するのに三ヶ月かかる。
それぞれ海に行き着く。
「邪靡堆」を都としており魏志倭人伝の邪馬台国であるとする。

「有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」とあり、阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、祷祭する。

隋使の裴世清らの道程は「都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」とあり、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に秦王國(中国人の国)他10余国をへて海岸についたという。
竹斯國から東はすべて俀であるという。

政治

「使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」とあり、天を兄とし、日を弟とした。
天が明けぬうち出てあぐらをかいて座り政務し、日が出ると政務をやめ弟にゆだねた。
隋の楊堅は義理がないとしてこれを改めさせたという。

また、「内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數」とあり、12の官(冠位十二階)制度があるという。

日出處天子

大業3年(607年)の国書に「'聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、仏教を学ぶための使者の国書が有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」であり、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を怒らせた(「」)
(なお「日出處」「日沒處」は当時の仏典(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』など)に「日出処是東方 日没処是西方」とある。)
(東西の方角を表す表現である。)

解釈

『隋書』はこの王を妻のいる男性としており、男性の王は『日本書紀』、『古事記』には記述が無い。
『旧唐書』卷199上 列傳第149上 東夷 倭國 においても倭国の王の姓は阿毎氏であるとしている。
『新唐書』卷220列傳第145 東夷 日本に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」とあり多利思北孤を多利思比孤とし用明天皇としている。

日本では直木孝次郎による多利思北孤は多利思比孤の誤りとする説が通説となっている。
また、推古天皇か厩戸皇子(聖徳太子)のことだとする論者もいる。
また、この王を九州王朝の王とする論者もある。
が、査読のある学術雑誌において九州王朝を肯定的に取り上げた論文は皆無であり、科学的な研究とはみなされていない。

太子名のうち利を和の誤りとする説もある。

[English Translation]