大伴古麻呂 (OTOMO no Komaro)
大伴古麻呂(おおともの こまろ、生年不詳 - 天平宝字元年(757年)7月4日)は奈良時代の貴族。
大伴田主、もしくは大伴宿奈麻呂の子。
大伴旅人の甥。
子に大伴継人がいる。
天平4年(732年)遣唐使留学生として入唐。
帰朝後、天平10年(738年)兵部大丞。
天平勝宝元年(749年)左少弁。
天平勝宝4年(752年)遣唐副使に任じられ、大使藤原清河とともに入唐。
天平勝宝5年(753年)正月、玄宗 (唐)臨御の諸藩の朝賀に出席。
古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、新羅の東畔第一席より下であったことに抗議し、新羅より上席に代えさせている(『続日本紀』天平勝宝6年条)。
天平勝宝6年(754年)帰国の際、遣唐使一行は鑑真を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じた。
大使藤原清河は鑑真一行の乗船を拒否したが、古麻呂は独断でこれを許して副使船に乗船させた。
帰路、大使船は暴風雨に遭い、南方に流されて帰国できなかったが(藤原清河は唐で客死)、副使船は無事帰国して鑑真を来日させることができた。
同年、左大弁に任じられる。
天平宝字元年(757年)3月、聖武天皇の遺言で任ぜられた皇太子道祖王が孝謙天皇の勘を受けて廃される。
4月、孝謙天皇は群臣に新太子を諮り、右大臣藤原豊成は塩焼王を適当とし、古麻呂は池田王を推したが、天皇の意中は紫微令藤原仲麻呂の推す淳仁天皇であったため、大炊王が立太子された。
仲麻呂は孝謙天皇の信任厚く、専横であったため、古麻呂はこれに不満を持ち兵部卿橘奈良麻呂と結んで仲麻呂を除こうと画策した。
橘奈良麻呂、古麻呂らが一味して兵を起こして仲麻呂を殺して皇太子を退け、孝謙天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するという計画であった。
6月、正四位下の古麻呂は陸奥鎮守将軍兼陸奥按察使に兼任させられ、陸奥国への赴任を命じられた。
橘奈良麻呂は兵権を奪われ左大弁に移された。
7月3日、山背王らの密告により、反乱計画は露見。
奈良麻呂、古麻呂、道祖王、黄文王らは捕えられ、藤原永手、百済王敬福、船王らの監督下、杖で何度も打たれる拷問の末、絶命した。
(橘奈良麻呂の乱)
絵巻物である『鑑眞和上東征傳』に大伴古麻呂が登場する。