大内持世 (OUCHI Mochiyo)
大内 持世(おおうち もちよ、1394年3月23日(明徳5年2月21日 (旧暦)) - 1441年8月14日(嘉吉元年7月28日 (旧暦)))は、室町時代中期の守護大名。
大内氏の第12代当主。
父は応永の乱を起こしたことで有名な第10代当主・大内義弘。
官位は刑部少輔、修理大夫。
1431年、第11代当主・大内盛見が大友氏・少弐氏と戦って筑前国で敗死した後、大内氏内部では後継ぎをめぐっての争いが起こった。
生前、盛見は持世に家督と長門国を除く所領を、大内持盛に長門を継ぐように遺言していた。
幕命もあって持世は当初、これに従ったが、やがて国人衆の支持を背景にして持盛を滅ぼし、家督と大内氏の領土全てを相続するに至ったのである。
その後は少弐満貞、大友持直と戦ってこれに勝利して勢力を拡大。
少弐氏を滅亡寸前までに追い込んだが、1440年には持世なりの寛大さがあったのか、幕府の将軍・足利義教に少弐氏との和睦を取り持ってもらうことで少弐氏を存続させている。
少弐氏と同盟関係にある対馬国の宗氏との関係悪化を恐れたとも言われる。
1441年、赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いにと祝宴を開いたとき、持世も義教に従って臨席していたが、このときの嘉吉の乱で重傷を負い、それがもとで7月28日に死去してしまった。
享年48。
後を、養嗣子の大内教弘が継いだ。
当主として有能なだけではなく、和歌にも優れた教養人である。
『新続古今和歌集』には多くの作品が遺されている。