大内政弘 (OUCHI Masahiro)

大内 政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代の守護大名大内氏第29代当主。
最盛期には周防国・長門国・豊前国・筑前国と、安芸国・石見国の一部を領有し、強大を誇った。
応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。
文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。

細川氏との対立

1465年(寛正6年)に、父大内教弘の死により家督を相続する。
父に引き続き、日明貿易(勘合貿易)をめぐり管領細川勝元と争い、細川氏と敵対する伊予の河野氏を支援する。
これに対し細川氏は大内氏追討の幕命を発する。
これらの確執が、応仁の乱の際に反細川氏側につく要因となる。

応仁の乱

応仁の乱では、西軍山名持豊(宗全)に与力し、1467年(応仁元年)7月に上洛、およそ10年間にわたり畿内各地を転戦する。
そのさなか、1470年(文明 (日本)元年)に少弐氏、細川氏らに使嗾された叔父大内教幸が下関で謀反を起こし、政弘は討伐のために陶弘護を帰国させる。
その弘護の活躍もあり1472年には教幸を自害に追い込み、乱を鎮圧する。

領国拡張

応仁の乱が収束すると1477年(文明9年)に帰国する。
乱後に安堵された周防・長門に加え安芸・石見の一部を安堵され、少弐氏と争い豊前・筑前を得る。
安芸、石見の豪族や国人らを臣従させ、北九州や瀬戸内海の水軍を平定するなど西国の支配権確立に力を傾ける。

六か国の主

1480年(文明12年)には相伴衆となる。
1487年(長享元年)9代将軍足利義尚が行った近江国の六角氏討伐には家臣間田弘胤を代理として参陣させた。
1491年(延徳3年)には上洛し、10代将軍足利義稙に従い六角氏平定に従軍する。
翌1492年(明応元年)には嫡子大内義興を参陣させた。
1494年(明応3年)中風が悪化したため義興に家督を譲り隠居し、翌1495年(明応4年)に死去。
享年51。

貿易・内政

対明貿易は、博多商人と連携し、堺商人と組んだ細川氏と競合しつつ遣明船を派遣した。
また、対朝貿易にも応仁の乱以降力を入れた。
これらで得た莫大な利益は、軍費などに充てられた。

また、応仁の乱後は領国経営にも意を注ぎ、社会秩序の確立に努めた。
分国法として知られる大内家壁書の多くはこの時期に作られたという。

文化

和歌・連歌を好み、家中にも勧奨した。
一条兼良・正広・宗祇・三条西実隆ら多くの歌人・連歌師と交流する。
荒廃した京から公家、僧侶、雪舟などの芸術家を山口に招き、文化の興隆に尽力した。
1480年(文明12年)には宗祇を招き、連歌会を行なっている。
さらに、私家集『拾塵和歌集』を編纂、自作の歌1100余首を残すとともに、准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』も後援し、そのなかには自らの歌も多く撰ばれている。

また、当時知られ始めた能楽についても高い関心を示し、1483年(文明15年)に猿楽座宝生が大内館で興行・指導を行った記録がある。

大内氏は多くの古典を収集し、出版、筆写させた。
大内版と呼ばれるこれらの出版物のうち、政弘は法華経28巻や漢詩辞書『聚分韻略』を出版している。

偏諱を受けた人物

陶弘護
吉川弘経
小早川弘景
毛利弘元

[English Translation]