大内義長 (OUCHI Yoshinaga)

大内 義長(おおうち よしなが)は、周防国・長門国の戦国大名。
周防大内氏の最後の当主。

生涯

豊後国大友氏の第20代当主・大友義鑑の次男として生まれる。
天文12年(1544年)、実子の無い叔父の大内義隆の猶子として迎えられ、室町幕府第12代将軍・足利義晴から一字をもらって晴英と名乗る。

しかし天文14年(1545年)、義隆に実子の大内義尊が誕生したため、猶子関係を解消され、帰国した。
しかし義隆の重臣陶隆房(陶晴賢)が義隆に対して謀反を企てると、隆房は天文20年(1551年)5月に晴英を大内氏の新当主に迎えることを示した。
大友義鎮は当初から陶隆房が晴英を傀儡として擁立するだけで、自分の政権が揺ぎ無いものとなれば、廃嫡されるに違いないと疑い反対したが、晴英自身が大内当主となるのを望み、「この要請を断り中傷を受ける事の方が悔しいので、命は惜しくない」と主張した為、義鎮もこれを認めた。
そして9月に謀反を起こして義隆が殺される(大寧寺の変)と、大内氏の新当主として擁立される(このとき、隆房は晴英を君主として敬うことを内外に表明するため、晴英から一字を拝領し、晴賢と改名した)。

天文22年(1553年)、室町幕府13代将軍の足利義藤から一字をもらって大内義長と改名した。
しかし大内氏の当主とはいえ、実質的には晴賢の傀儡であった。
また、弘治2年(1556年)には、勘合貿易の再開を求めて明に使者を派遣したが、明からは正統な大内氏当主としての承認を拒まれている。

弘治元年(1555年)、陶晴賢が毛利元就との厳島合戦で敗死すると、血縁があるとはいえ一度解消された経緯のある養子だった義長の求心力は低く、ただでさえ陶晴賢の謀反やその他の内訌で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、大内氏は急速に衰退していく。
毛利元就の防長経略で弘治3年(1557年)3月、毛利軍は山口市へ侵攻。
義長は寡兵で良く防戦したが、結局は高嶺城を放棄して重臣内藤隆世の長門且山城へ敗走する。
しかしすぐに毛利軍の福原貞俊により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し、自刃した。
しかし義長も長福院(現・功山寺)に入った後に毛利軍に囲まれて自刃を強要され、4月3日に自害した。
享年26。
この時、大内氏の家宝だった大内瓢箪茶入を持っていた元就は、大友義鎮に義長の助命を提案したが、義鎮は冷徹にも弟の命を無視して茶入を欲し、手に入れたという。

大内義長辞世の句
誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ

義長の死により、西国の名門・大内氏は滅亡したが、早くから分かれた傍流の山口氏が江戸時代まで存続した。

[English Translation]