大宝天皇 (Emperor Taiho)
大宝天皇(たいほうてんのう、-、在位-)は、南朝 (日本)正統を自称した三浦芳聖により、彼の祖先と主張された人物。
三浦皇統家第五代の天皇にあたり、三浦家初代(芳聖は十八代目)という。
諱は美良(よしなが)。
のち三浦藤太夫と称した。
号宗心。
略歴
三浦の著書『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』によれば、大宝天皇は、、遠江国京丸(現在・静岡県浜松市天竜区春野町)で誕生したという。
父は松良天皇、母は長慶天皇の皇女・綾子。
1410年(応永17年)、三河国萩(現・愛知県豊川市萩町)にて松良天皇より譲りを受けて践祚。
三浦は後村上天皇系の南朝を後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた擬天皇とするため、この系統が南朝正統と主張している。
また、藤原石山『南朝正統皇位継承論』は、副統の後亀山天皇(熙成王)が、足利義満の謀略に掛かって講和したため、1392年(明徳3年)の南北朝合一以後、全国の勤皇の武士たちは南朝正統に味方する大義名分を失い、南朝正統は衰微の一途をたどったとしている。
1438年(永享10年)、三河国額田郡切越(愛知県岡崎市切越町)に隠棲した。
同国夏山の寺野に薬師堂を建立し、父や遠祖・尊良親王を隠祀し菩提をとむらった。
また三浦は、この薬師堂とは、現在地元でお参りすると母乳がよく出るようになる「寺野のちち薬師」と呼んでいるものが比定されるとしている。
元は父・松良天皇と遠祖尊良親王に因み「父薬師」と称していたものだという。
、足利方が南朝の後胤を探索し見つけ次第殺害したため、身の危険を避けるため額田郡牧平大門(愛知県岡崎市牧平町大門)に移住し、三種の神器を地下に埋蔵し、皇后・三浦佐久姫(建武の中興で活躍した富士大宮司家、三浦氏の嫡女)の姓を名乗り、三浦藤太夫と称し純然たる百姓となった。
3月15日、88歳で崩御、御陵は牧平黄金山陵と主張される。
また皇位回復を願って大般若経六百巻を念書したという。
この大般若経の大部分は、牧平大門の神宮寺に所蔵してあったが火災で焼失した。
三巻のみが愛知県豊田市稲武町黒田の正寿寺に寺宝として現存している。
文字は一字の狂いもなく丁寧正確に念書されているという。
皇后三浦佐久姫
三浦によれば、大宝天皇の皇后・三浦佐久姫は、応神天皇の第二皇子大山守皇子より五十七代目にあたるという。
また五代前の三浦義勝は富士大宮司で南朝秘密裏大将だという。
また佐久姫は楠木正成の五世の孫でもあるとされた。
藤原石山によれば、父は三浦宗明、母は楠木正親の女・冬子だという。
また三浦によれば、佐久姫は木花佐久耶姫の再現だという。
愛知県知多郡東浦町大字生路に土着・百姓となった三浦氏の忠臣らは、主君・佐久姫を木花佐久耶姫として祀ったとう。
「神后庵」と称する本地仏を祀る菩提寺が隣接する伊久智神社(東浦町)がその祀った場所だとしている。
大宝天皇御製
九重の砌をめぐる三河水 住み越し末は絶えじとぞ思う
真弓月 ほのぼのと明けゆく空を眺むれば 月ひとりすむ西の山影