大槻俊斎 (OTSUKI Shunsai)
大槻 俊斎(おおつき しゅんさい、文化 (元号)3年(1806年) - 文久2年4月9日 (旧暦)(1862年5月7日))は、幕末の蘭方医。
幕府医師。
初代西洋医学所頭取。
名は肇。
文化 (元号)3年(1806年)、陸奥国桃生郡赤井村(現・宮城県東松島市)に生まれる。
安政5年(1858年)、伊東玄朴・戸塚静海らと図り、お玉が池種痘所設立。
同所の長となる。
万延元年(1860年)9月1日、将軍徳川家茂に拝謁し、お目見え医師となる。
同年10月27日、陸奥国仙台藩医より幕府医師に登用される。
種痘所が公営(幕府営)となったのちも、そのまま頭取を勤めた。
文久2年(1862年)没。
墓碑は巣鴨総禅寺に存在する。
子息、大槻玄俊はのちに俊斎の名を継いでいる。
お玉が池種痘所は西洋医学所、医学所等と改称・発展し、東京大学医学部の前身とされるため、俊斎は東大医学部初代総長と見なされている。
手塚治虫の直系の先祖である手塚良仙の女婿で、種痘所の創設に苦心するさまは手塚の『陽だまりの樹』に描写されている。
なお、同じ仙台藩の出身で蘭学者の家系でもある大槻玄沢の家系とは、血縁的なつながりは無い。