大江朝綱 (OE no Asatsuna)
大江 朝綱(おおえ の あさつな、866年(仁和2年) - 958年1月25日(天徳 (日本)元年12月28日 (旧暦)))は平安時代中期の公卿にして学者及び書家。
父は丹後守大江玉淵、祖父は検非違使別当参議大江音人。
祖父が江相公と称されたのを由来として、彼は後江相公と称された。
書家としての技量は小野道風と並ぶ。
また、新国史の編纂員として別当にも補任された。
官歴
911年(延喜11)、文章生と就る。
916年(延喜16)3月28日、文章得業生と就り、丹波掾に任官。
918年(延喜18)1月12日、信濃権掾に遷任。
923年(延喜23)1月12日、刑部少丞に遷任。
924年(延長 (日本)2)2月1日、民部少丞に遷任。
925年(延長3)1月30日、民部大丞に転任。
928年(延長6)1月7日、従五位下に叙位。
1月29日、大内記に遷任。
930年(延長8)1月29日、三河権介を兼任。
12月17日、民部少輔を兼任。
933年(承平 (日本)3)10月24日、左少弁に転任。
民部少輔と三河権介如元。
934年(承平4)1月7日、従五位上に昇叙。
左少弁・民部少輔・三河権介如元。
12月21日、文章博士を兼任。
936年(承平6)5月22日、越前介を兼任。
三河権介を去る。
8月15日、伊予介を兼任。
越前介を去る。
938年(承平8)1月7日、正五位下に昇叙し、左少弁・民部少輔・文章博士・伊予介如元。
940年(天慶3)12月6日、右中弁に転任。
民部少輔・文章博士・伊予介如元。
941年(天慶4)1月、従四位下に昇叙し、右中弁・民部少輔・文章博士・伊予介如元。
3月28日、民部大輔を兼任。
右中弁と民部少輔を去る。
944年(天慶7)4月25日、右中弁に遷任。
民部大輔・文章博士・伊予介如元。
945年(天慶8)10月14日、左中弁に遷任。
民部大輔・文章博士・伊予介如元。
946年(天慶9)4月21日、昇殿を許される。
11月19日、従四位上に昇叙し、左中弁・民部大輔・文章博士・伊予介如元。
949年(天暦3)1月24日、伊予権守を兼任。
伊予介を去る。
951年(天暦5)1月30日、左大弁に転任。
5月22日、勘解由長官を兼任。
953年(天暦7)9月25日、参議に補任。
954年(天暦8)3月14日、備前守を兼任。
955年(天暦9)閏9月17日、美濃権守を兼任。
備前守を去る。
956年(天暦10)1月7日、正四位下に昇叙し、参議如元。
1月27日、讃岐権守を兼任。
957年(天徳 (日本)元)12月28日、卒去。
享年92。
時に参議正四位下行讃岐権守。
書跡
紀家集(きかしゅう)
延喜19年(919年)紀長谷雄の詩文集を書写したものである。
伊都内親王願文のような自由軽妙な躍動がある。
巻末に朝綱の記名があるので真跡であることは疑いない。