大蔵善行 (OKURA no Yoshiyuki)

大蔵 善行(おおくら の よしゆき、天長9年(832年) - 延喜21年(921年)?)は、平安時代の学者。
姓は忌寸から伊美吉、のちに朝臣を賜る。
菅原道真とは当時の学界の双璧で、「天神」道真に対して「地仙」と呼ばれた。
唐名は蔵外史大夫。

略歴

貞観 (日本)14年(872年)に蔵人となり、諸書類を校正、都良香の推薦で内記になった。
仁和年間から延喜年間にかけては不動の大外記を務め、機密文書作成に従事した。
この間、治部少輔・勘解由次官・三河権介などを兼任し、『日本三代実録』『延喜格』『延喜式』などの編修に参与した。
また、私塾を経営し、藤原基経・藤原時平・藤原忠平・平惟範・三統理平・紀長谷雄ら多くの人々に教授した。
その一門は政・学界にはびこり、出世争いで菅原道真一門としのぎを削っていた。

逸話

87歳で子をなし、90歳以上の長寿を全うしたと伝えられる。

陰謀加担の可能性

寛平~延喜年間、大蔵一門のライバルである菅原一門は、菅原道真の讃岐守左遷、阿衡の紛議、道真の遣唐大使任命、昌泰の変と立て続けに災難にあっている。
しかもこれらの諸災難を起こしたのは、いずれも善行の門下生たちなのである。
この間、道真は蔵人頭から右大臣へと異例の昇進を遂げているが、善行はずっと大外記のままであった。
少なくとも、善行にねたみというものが存在したことは確かであろう。

昌泰の変での道真左遷直後の延喜元年(901年)9月、善行が藤原時平以下門下生たちから盛大に七十の賀を祝ってもらったというのも興味のある出来事である。

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