太安万侶 (O no Yasumaro)

太 安万侶(おおの やすまろ 太 安萬侶、生年不詳 - 723年8月15日(養老7年7月6日 (旧暦)))は、奈良時代の文官。
太安麻呂、太安萬侶とも。
『古事記』や墓誌銘には「安萬侶」とあるが、『古事記』以外の史書(『続日本紀』、『弘仁私記』、『日本紀竟宴和歌』など)では「太安麻呂」となっている。
父は多品治とする説がある。

704年(慶雲元年春正月癸巳(1月7日)に従五位下に叙せられ、711年(和銅四年夏四月壬午(4月7日))に正五位上に叙せられる(『続日本紀』)。
この年、元明天皇に稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して歴史書を編纂するよう命じられる。
翌712年正月、天皇に『古事記』として献上する。
715年(霊亀元年春正月癸巳(1月10日))には従四位下に叙せられ、翌年九月乙未(9月23日)、氏長(うじのかみ。氏上。)となる(『続日本紀』)。
子孫の多人長によれば、『日本書紀』の編纂にも加わったという(『弘仁私記序』)。
養老7年秋7月庚午(7月7日)(墓誌では癸亥年7月6日)、民部卿従四位下太朝臣安麻呂卒する(「秋七月庚午民部卿従四位下太朝臣安麻呂卒」『続日本紀』)。

太安万侶墓誌
1979年、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から太安万侶の墓が発見され、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と共に墓誌が出土した。
墓誌の銘文は2行41字。
内容は、左京の四条四坊に住んでいたこと。
位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、723年(養老7年)7月6日に歿したことなどである。

その墓誌銘全文引用は以下の通り。

左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

墓は『太安萬侶墓』として1980年(昭和55年)に国の史跡に指定されている。

[English Translation]