奈古屋里人 (NAGOYA Satondo)
奈古屋 里人(なごや さとんど、寛文11年(1671年)- 寛保元年(1741年))は、江戸時代の人物。
徳山藩士。
父は奈古屋隆充(里人は3男)。
養父は奈古屋隆吉。
叔父は奈古屋与左衛門。
兄に奈古屋玄蕃、その子に奈古屋伊織。
通称は勘左衛門、後に左衛門と改める。
変名として中原松軒、人形屋三左衛門と称した。
禄高は120石。
格式は馬廻。
正徳 (日本)5年(1716年)8月5日 (旧暦)、万役山事件について徳山藩主・毛利元次に諫言するも聞き入れられずに家名断絶・追放され、三田尻向島(現在の防府市)に閉居した。
翌年の徳山藩改易の報に驚き、直ちに徳山に伺候し百次郎(後の毛利元尭)に謁した。
里人は早くに元次に諫言し勘気を被っていた関係もあって、萩藩での評判は悪くなかった。
そのため、萩藩ではむしろ里人を登用し、改易後の始末を一任しようとして、その仕官を勧誘したほどであるが、里人は巧みに話をそらした。
以前師事したことのある京都の青蓮院宮について書道を学び、兼ねて持病の療養をしたいということを口実として、旅券の下付を申請した。
京都に出て青蓮院宮に奉公し、再興の手段を巡らした。
里人は京都を拠点として、江戸・大坂・徳山市・萩市など各地に散らばった仲間と連絡を取り合い、情報を集めながら時期を待ち、享保4年1月 (旧暦)(1719年)、里人は「周防徳山領百姓中」と署名し、嘆願書を老中・水野忠之、大目付・横田重松、目付・千葉七郎右衛門の3人宛てに投書した。
この嘆願書は幕閣の同情を勝ち取り、改易は処置が重過ぎるという意見が出て、徳山藩再興が決定した。
吉元から内願した形式をとった後、5月28日 (旧暦)に元次のお預けを免じ、先年の吉元の願い通りに、元次の隠退と百次郎の家督相続を許可した。
ここに徳山藩は再興された。
寛保元年(1741年)、里人は死去した。
享年71。
後に「徳山藩に過ぎたるもの三つ、藩主墓所と桜の馬場に奈古屋里人」と謡われた。