契沖 (Keichu)

契沖(けいちゅう、1640年(寛永17年) - 1701年3月4日(元禄14年1月25日 (旧暦)))は、江戸時代中期の真言宗の僧であり、和学者(国学者)。
摂津国尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で生まれた。
釈契沖とも。
俗姓は下川氏、字は空心。
祖父下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父元全は尼崎藩士から牢人となる。

契沖は、幼くして大阪今里 (大阪市)の妙法寺の丰定(かいじょう)に学んだ後、高野山で阿闍梨の位をえる。
ついで大坂生玉(いくたま)の曼陀羅院の住持となり、その間下河辺長流と交流するが、俗務を嫌い畿内を遍歴して高野山に戻る。
その後、和泉国池田郷万町村(現在の大阪府和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、日本の古典を数多く読んだ。
妙法寺住持分を経て、晩年は摂津国高津の円珠庵で過ごした。

著書は、徳川光圀から委嘱を受けた『万葉代匠記』をはじめ、『厚顔抄』、『古今余材抄』、『勢語臆断』、『源註拾遺』、『百人一首改観抄』、『和字正濫抄』など数多い。
また、その学績は実証的学問法を確立して国学の発展に寄与し古典研究史上、時代を画するものであり、また後世の歴史的仮名遣いの成立に大きな影響を与えた。

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