奥宮健之 (OKUNOMIYA Kenshi)
奥宮 健之(おくのみや けんし、1857年12月27日(安政4年11月12日 (旧暦)) - 1911年(明治44年)1月24日)は、自由民権運動で活躍した日本の社会運動家。
幸徳事件で処刑された12名の1人。
経歴
土佐国土佐郡布師田村に生まれる。
父の慥慥斉は、藩内一流の陽明学者で容堂の侍講であった。
健之は11、12歳ころ東京に出て、英学を修めた。
明治14、15年頃、三菱財閥に入ったが、自由党 (日本)自由党 (明治)が結党されると会社をやめ入党した。
馬場辰猪とともに土佐の二俊秀と称された。
1882年(明治15年)、嚶鳴会に対決するものとして、馬場、大石正己、西村玄道らと国友会を結成した。
浅草井村楼での演説のために東京府下の演説が禁じられたので、講釈師の鑑札を受けて芸名「先醒堂覚明」で席亭に出、講談に託して自由民権を説いたが、席亭主人とともに罰せられ、健之は集会条例違反で軽禁錮1ヶ月に処せられた。
それに続き、人力車を糾合する「車会党」を結成する。
東京馬車鉄道の敷設で失業した車夫に着目し、竹内綱の抱えの三浦亀吉という親分を説得、周旋させ、集まった者にはいくらでも酒を飲ませるというビラをまき、1882年(明治15年)10月4日、神田明神境内で人力車夫大懇親会を開いたのである。
300余名が集まった。
懇親会はさらに1、2回開かれたが、健之は出席しなかった。
これは巡査に暴行したとされ、石川島監獄に収容されていたからである。
健之の投獄で車会党は自然消滅状態となった。
1883年(明治16年)、出獄し、鹿児島県におもむく途中、名古屋市に立ち寄った際に、名古屋事件に係わった。
愛知県内の一部自由党員は板垣退助の演説、星亨の遊説などにもあおられ、政府転覆の陰謀に狂奔していた。
軍資金を得るべく富豪強奪の凶行に出たのは1884年(明治17年)8月であった。
しかし目的を達することはできず、帰途、警官と衝突、その幾人かを斬った。
10月、健之が自由党大会のために大阪に行っている間に、同志が白昼、大草村役場に斬り込み、国税を強奪した。
一味はつぎつぎに検挙され、健之は官憲の目を逃れつつ、各地を転々としていたが、1885年(明治18年)1月、東京で縛され、名古屋に護送された。
未決勾留中は脱獄も試みた。
1887年(明治20年)5月、判決が言い渡されたが、一味の国事犯としての扱いはなされず、強盗殺人事件として死刑数名、健之は無期徒刑であった。
小菅集治監(現在の東京拘置所に所在)、宮城刑務所と転々として、1889年(明治22年)秋、北海道の樺戸集治監に移された。
ここでも脱獄を試みた。
これにさきだって板垣、片岡健吉、林有造らは、自分たちが大日本帝国憲法発布の寛典にもれたことを遺憾とし、国事犯に準じて特赦復権に浴したいと運動していたが、板垣が第2次伊藤内閣内務大臣 (日本)の地位についたのでついに1896年(明治29年)7月、同志らとともに釈放された。
幸徳秋水事件で死刑判決の言い渡しを受け、1911年(明治44年)1月24日、刑死。
墓は、東京都豊島区の都営染井霊園にある。