奥平信昌 (OKUDAIRA Nobumasa)
奥平 信昌(おくだいら のぶまさ)は戦国時代 (日本)から江戸時代にかけての武将。
初名は貞昌(さだまさ)。
徳川家康の長女亀姫 (盛徳院)を正室に迎え、家康の娘婿として重用された。
亀姫との間に奥平家昌など4男1女を儲けた。
経歴
三河国作手の有力国人奥平貞能の長男として生まれる。
母は牧野成種の娘。
奥平氏は祖父奥平貞勝の代までは今川氏に属していた。
桶狭間の戦い後に三河における今川氏の影響力が後退すると、徳川家康の傘下となり遠江国掛川城攻めに加わった。
元亀年間(1570年~1573年)には武田氏の三河への侵入を契機に武田氏に寝返っていた。
しかし天正元年8月(1573年)、秘匿されていた武田信玄の死を確信した父貞能の決断によって武田氏を離反した。
武田方の間隙を衝いて長篠城奪回に成功していた徳川家康に帰順する。
その際に武田方に人質として差し出していた許嫁などは処刑されたという。
帰順後は、家康から長篠城の守備を命じられた。
その際に家康からは、武田軍を撃退できた場合には長女の亀姫の婿とするという約定を与えられた。
長篠の戦いと改名
奥平氏の離反に激怒した武田勝頼は、天正3年5月(1575年)に1万5000を号する大軍を率いて長篠城へ押し寄せた。
貞昌は長篠城に籠城して武田軍の攻勢に耐えた。
その結果同月21日の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍は武田軍を破った。
この時の戦いぶりを織田信長から賞賛され、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めた。
信長の直臣でもないのに偏諱を与えられた者は、信昌の他に長宗我部信親や松平信康などがいる。
しかし、これらはいずれも外交的儀礼の意味合いでの一字贈与であると考えられている。
家康もまた、名刀大般若長光を授けて信昌を賞賛した。
家康はそれだけに留まらず、信昌の籠城を支えた奥平の重臣12名に対して一人一人に労いの言葉を掛けた。
その上、彼らの知行地に関する約束事など子々孫々に至るまでその待遇を保障するという特異な御墨付きまで与えた。
この戦いの後に、父貞能から正式に家督を譲られた。
その後の事績
天正13年(1585年)、徳川氏の宿老石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔した。
数正によって秀吉に自家の軍事機密が流出するのを防ぐため、家康は急遽三河以来の軍制を武田信玄の軍制に改めた。
かつて武田家に臣従していた信昌は、この軍制改革に貢献したという。
天正18年(1590年)7月、関東へ国替えとなった家康と共に関東に移転した。
同年8月23日、上野国甘楽郡宮崎3万石に入封する。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは本戦に参加(一方で家史・中津藩史では、秀忠軍に属していたと記載あり)。
戦後は京都の治安維持のため、京都所司代を翌年まで務める。
この時、京都潜伏中の安国寺恵瓊を捕縛した。
恵瓊が所持していたという短刀・庖丁正宗は、信昌が家康に献じたものだが、改めて信昌に下されている。
一方で太秦に潜伏していた宇喜多秀家には逃げられている。
慶長6年(1601年)3月には、関ヶ原戦後に関する一連の功として、上野国小幡藩3万石から美濃国加納藩10万石へ加増転封される。
慶長7年(1602年)、加納で隠居し、三男の奥平忠政に藩主の座を譲った。
慶長19年(1614年)には、忠政と下野国宇都宮藩10万石の長男家昌にまで先立たれ、大坂の役どころではなかった。
翌年3月に死去。