妻木煕子 (TSUMAKI Hiroko)
妻木 煕子(つまき ひろこ、享禄3年(1530年)頃 - 天正4年11月7日_(旧暦)(1576年11月27日)?)は戦国時代 (日本)、安土桃山時代の武将明智光秀の2番目の妻。
名は照子とも。
子に細川ガラシャ(細川忠興正室)。
享禄3年(1530年)頃の生れと考えられる。
妻木城主・妻木範煕(広忠)の娘とされる。
しかし、出自については夫の光秀と同じく、はっきりしないため確証はない。
天文_(元号)14年(1545年)頃、明智光秀と婚約する。
しかしその後天然痘にかかり、体中にあばたが残ってしまった。
父・範煕は、煕子と瓜二つの妹を、煕子のふりをさせて光秀のもとにやったが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えたという。
その後、本拠の落城、浪人生活、朝倉氏・足利氏・織田氏仕官という多難な日々の中で、煕子は自分の黒髪を売って、光秀を助けたという。
(しかし、これらの逸話については斎藤鎮実の妹で高橋紹運に嫁いだ妻や山内一豊の妻見性院 (山内一豊室)の話に酷似しており、後世の創作ともいう)。
光秀もまた、煕子存命中は1人の側室も置かず煕子を大切にしたという。
煕子と光秀との間に生れた子供の一人が後の細川ガラシャと呼ばれる明智珠である。
光秀が重病となった時にも必死に看病したものの、自身がその看病疲れが元で病死したという。
しかし、天正10年(1582年)の坂本城落城のときに死亡したという説もある。
滋賀県大津市の明智氏、妻木氏の菩提寺である西教寺に墓がある。