安田国継 (YASUDA Kunitsugu)
安田 国継(やすだ くにつぐ、弘治 (日本)2年(1556年) - 慶長2年6月2日 (旧暦) (1597年7月16日))は戦国時代 (日本)、安土桃山時代の武将。
幼名、岩福。
安田作兵衛の名で知られる。
明智光秀配下、斎藤利三の家臣。
美濃国安田村の住人。
明智三羽烏の一人。
本能寺の変では、先鋒として京都に進出し、織田信長を槍で攻撃。
行く手を阻んだ森成利(蘭丸)に十文字槍で下腹部を突かれるも成利を討ち取るなど功を挙げた。
その後山崎の戦いで敗走し、天野源右衛門と改名して浪人。
羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷と仕えた後、かつて討った成利の兄である森長可に武勇を見込まれて召抱えられる。
小牧・長久手の戦いには同行せず、長可死亡後は森家を出奔し再び浪人。
その後立花宗茂に仕えた。
九州征伐では立花勢に属して功があったという。
文禄・慶長の役では豊臣家と立花家の間に立った使者として何度か名前が見える。
最後は寺沢広高に仕え、8000石を有した。
慶長2年(1597年)に死去。
享年42。
死因は頬の出来物の悪化を苦にしての自害という。
死んだ日は奇しくも織田信長の命日と同日であった。
墓所は佐賀県唐津市浄泰寺。
法名、善要智仙人禅定門。