安達宗景 (ADACHI Munekage)

安達 宗景(あだち むねかげ、正元 (日本)元年(1259年) - 弘安8年(1285年)11月)鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。
安達氏の一族で、安達泰盛の嫡男。
秋田城介。
妻は紙屋河顕氏の娘。
子に安達貞泰、北条顕時の後室(無着)。

父泰盛が29歳の時に産まれる。
建治3年(1277年)2月に検非違使に任官、弘安4年(1281年)に23歳で引付衆となる。
弘安5年(1282年)に泰盛が陸奥守に任官するのを機に評定衆、弘安6年(1283年)に秋田城介に就任。
弘安7年(1284年)4月に執権北条時宗の死去に伴って泰盛が出家しているので、この時に宗景が家督を継承したと見られ、泰盛が長年務めた五番引付衆頭人も引き継いでいる。
同年5月に高野山から幕府に宛てた報告書の宛名は宗景となっており、時宗の嫡子北条貞時が7月に執権職に就くまでの空白期に宗景が執権職を代行していた。

弘安8年(1285年)11月の霜月騒動で死亡。
享年27。
『保暦間記』によれば、霜月騒動の原因は、宗景が曾祖父の安達景盛が源頼朝の落胤であると称して源氏に改姓したところ、平頼綱が安達氏が謀反を企んで将軍になろうとしている、と讒言したためとしている。

子の貞泰は安達一族と親しい北条氏 (金沢流)に庇護され、正中 (元号)2年(1325年)7月18日、慶珊寺富岡八幡社に大般若経を奉納している。

[English Translation]