安達時顕 (ADACHI Tokiaki)

安達 時顕(あだち ときあき、生年未詳 - 元弘3年/正慶2年5月22日 (旧暦)(1333年7月4日))は鎌倉時代末期の鎌倉幕府の御家人。
秋田城介。
安達氏の一族で、父は霜月騒動で討たれた安達宗顕。
嫡男に安達高景、娘に北条高時妻。

弘安8年(1285年)の霜月騒動で父宗顕をはじめ一族の多くが滅ぼされた。
しかし、幼子であった時顕は乳母に抱かれて難を逃れた。
永仁元年(1293年)平禅門の乱で平頼綱が滅ぼされた後に安達一族の復帰が認められ、時顕が安達氏家督である秋田城介を継承した。

応長元年(1311年)、9代執権北条貞時の死去にあたり、時顕は貞時から長崎高綱と共に9歳の嫡子高時の後見を託されたという。
文保元年(1317年)に霜月騒動で討たれた父宗顕の33回忌供養を行う。
正和5年(1316年)、14歳で執権職を継いだ高時に娘を嫁がせて北条得宗家の外戚となった。
また、時顕の嫡子高景は長崎円喜の娘を妻に迎え、内管領とも縁戚関係を結んで権勢を強めた。

元亨4年(1324年)9月、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、関与した公家らが六波羅探題によって処罰された。
弁明のために後醍醐天皇から鎌倉に派遣された万里小路宣房を長崎円喜と共に詰問し、
困惑する宣房が時顕を恐れる様が嘲弄を招いたという。
正中 (元号)3年(1326年)3月、出家した高時の後継者を巡り、高時の妾で御内人の娘が産んだ北条邦時を推す長崎氏に対し、高時の舅である時顕と安達一族が反対して高時の弟北条泰家を推す対立が起こった(嘉暦の騒動)。
北条一門がそれに巻き込まれる事態となっている。
最終的には邦時が嫡子の扱いとなっている。

元弘3年/正慶2年(1333年)の幕府滅亡に際し、東勝寺 (鎌倉市)で北条一門と共に自害した。

[English Translation]