小曽根乾堂 (KOZONE Kendo)
小曽根乾堂 (こそね けんどう、男性、文政11年5月2日 (旧暦)(1828年6月13日) - 明治18年(1885年)11月27日)は、江戸時代末期から明治時代の日本の篆刻家である。
明治政府の勅命により御璽・国璽を刻したことでしられる。
幼名を六郎太、六朗。
諱は豊明。
字は守辱。
乾堂は号 (称号)で室号を鎮鼎山房とした。
通称は栄。
長崎市の人。
略伝
小曽根家の遠祖は武田勝頼の家臣とされるが、家祖は江戸時代初期の平戸道喜である。
道喜は博多区・平戸市と移り、慶長年間に長崎本博多町に住み、古物商と貿易を生業とした。
出島の南蛮屋敷の建設、眼鏡橋の修復、瑞光山永昌寺の建立など様々な事業を行った。
この道喜の代に小曽根姓に変った。
その後、家運が衰え乾堂の祖父の代には貧窮に陥った。
父六左衛門は幕末頃、越前藩や佐賀藩の御用商人となり長崎屈指の豪商になった。
乾堂はこの父と母中山氏の第一子として生まれた。
また父六左衛門は文芸にも造詣が深く、竹影と号しているが篠崎小竹に因んだと言われる。
書画や古器物を愛玩し印癖があった。
乾堂に対して文芸の道に秀でることを望み、その教育に熱心だった。
乾堂はこれに応え、書は春老谷、水野眉川、銭少虎に学び、南画を鉄翁祖門に師事し、篆刻は日本の篆刻家一覧の源伯民の流れを汲む大城石農に就いた。
漢詩・書・画・篆刻に加え、音楽や陶芸にも造詣を得た。
音楽は月琴を好み、三宅端蓮の門下となり明清楽を学ぶ。
これは来泊した林得建より伝えられた中国の伝統的な音楽である。
後日、乾堂とその一門は東京の離宮においてこの明清楽の御前演奏の栄誉に浴している。
「小曽根明清楽」と呼ばれ長崎から各地に伝わり浸透した。
この流れは現在長崎の無形文化財に指定されている。
名陶亀山焼 (長崎)の発展に尽力し、自らも鉄翁祖門や木下逸雲らとともに絵付けを施している。
亀山焼廃窯後は長子小曽根星海に再興するように託した。
この意思を受けて晨太郎は、明治24年頃に陶工を各地から招き自宅の邸内に窯を開いた。
小曽根焼もしくは鼎山焼と呼ばれ明治32年まで続いた。
とりわけ篆刻は優れた技能を発揮し、17歳の時には名士のもとめに応じて刻印している。
21歳のとき自刻印の印譜『乾堂印譜』・『乾堂印藪』を刊行したが篠崎小竹・広瀬淡窓・草場佩川らがその序文で大いに賞賛している。
また印籍『百花印箋』がある。
30歳で江戸に遊歴し、14代将軍徳川家茂に謁見し鉄筆の隷書を献じて親書を下賜されている。
明治4年、明治政府から御璽・国璽の刻印を拝命される。
従前の御璽・国璽が正しい印法・篆法に則っていないことを嘆き乾堂自身が政府に対して建白していた。
乾堂は本来なら純金か玉で刻すべきであるとしながら、国費の倹約のためにあえて印材を刻して政府に献上した。
しかし、これが裏目に出てしまい、しばらくのちに乾堂の印稿を元に安部井櫟堂が改めて合金製で拝刻した。
このあとすぐ日清修好条規締結のため全権大使伊達宗城の随員として清国に向かう。
清国側の全権大使李鴻章に認められて「鎮鼎山房」の額を贈られる。
乾堂は文人としての活動ばかりでなく事業家としても大いに活躍した。
松平春岳の援助を受けて父とともに浪の平海岸一帯の埋立事業をして港湾を整備し貿易の進展に尽くしている。
また坂本龍馬や勝海舟と関係があった。
勝海舟と長崎妻の間に生まれた子の世話もしている。
因みに海舟の印は乾堂の作である。
龍馬の亀山社中のスポンサーとなり亀山焼工場跡地を本拠地に斡旋。
後に海援隊 (浪士結社)となってからもその本部は小曽根家に置かれた。
晩年は長崎市立浪平小学校の創立、寺院や神社の創建、桟橋の架設、高島炭鉱の三菱財閥への譲渡斡旋などの業績がある。
享年59。
諡号は大器院白厳乾堂居士。
浪平太平寺に墓所がある。
著作
『西晋遺音』