小笠原秀清 (OGASAWARA Hidekiyo)

小笠原 秀清(おがさわら ひできよ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・有職故実家。
室町幕府幕臣・細川家(後の肥後藩主家)家臣。
一般には小笠原少斎の名で、細川ガラシャを介錯した人物として知られる。

関ヶ原の戦い以前

16世紀中期、小笠原稙盛(稙清)の子として出生。
生家の京都小笠原氏は、室町時代初期に小笠原宗家(信濃小笠原氏)から分かれ、代々京都で奉公衆として室町幕府に仕えていた。
父の稙盛は足利義輝の近習であったが、永禄8年(1565年)5月19日の永禄の変で義輝と共に討死した。
秀清は変の後に浪人となったが、後年丹後国で細川幽斎の客分となり、500石を給された。
後に剃髪して少斎と号したが、その時期は藤孝と同時の天正10年(1582年)とも、慶長元年(1596年)ともいう。

最期

慶長5年(1600年)6月、細川忠興が会津征伐に従軍すると、家老であった秀清は、河喜多(川北)石見一成、稲富祐直らとともに大坂屋敷の留守居を命じられた。
7月16日、ガラシャの大坂城登城を促す石田三成方の使者が来るが、秀清らはこれを拒絶。
ガラシャと相談の上、重ねて要求のあったときには自害すると決定した。
翌17日、石田方の兵に屋敷を囲まれると、秀清はガラシャの胸を長刀で突き介錯した。
この後、秀清は屋敷に火をかけて、河喜多らと共に自害した。
稲富は包囲方に加わっていた砲術の弟子の手引きで逃亡したため、後に忠興の勘気を蒙ることになった。

武家故実

ところで、生家の京都小笠原氏は室町幕府において代々将軍の弓馬師範を務める家柄であり、有職故実の中心的存在であった。
秀清も武家故実に関与していたようで、蜷川家文書 の武家故実に関するものには秀清の口伝本を書写したものがある。
また弓術の日置流雪荷派の伝書などには、始祖の吉田雪荷は秀清から故実を伝授されたとの記述がある。
秀清の子孫は明治維新期まで故実を伝えていた。

子孫
秀清の子息らは忠興の近親などと縁戚を結んだ。

嫡男長貞(長基)には、忠興の姪で吉田兼治息女たま(生母は藤孝息女伊与)が嫁した。
子孫は知行六千石。
藩主一門と婚姻を重ね、備頭・家老などの要職に就いた。

長良(宮内)には、藤孝息女で長岡孝以室であった千が再嫁した。
キリシタンであったが棄教した。

長定(与三郎・刑部入道玄也)には、細川家重臣の加賀山興良の息女みやが嫁した。
興良はキリシタンで、元和 (日本)5年(1619年)10月15日小倉北区で殉教。
玄也一家もキリシタンであり棄教を迫られ続けたものの、その後も長らく秘匿されていた。
細川家の移封に従い熊本市に移るが、長崎奉行への密告があって幕府に露見したため、寛永12年12月22日(1636年1月30日)、熊本禅定寺において家族・従者と共に殉教した。
平成19年(2007)6月1日、家族・従者ともに福者に列せられることが決定した。

[English Translation]