小鴨元清 (OGAMO Motokiyo)

小鴨 元清(おがも もときよ)は、戦国時代 (日本)・安土桃山時代の武将で伯耆国久米郡岩倉城 (伯耆国)主。
一部で羽衣石城主とする記述が見られるが、誤りである。

経歴
南条宗勝の次男として生まれる。
生年不詳である元清の初見は永禄5年(1562年)11月、松尾神社に神田75石を寄進したのが初めである。
その後、永禄から天正年間にかけて小鴨氏の家督を継ぎ、小鴨姓を名乗った。
天正7年(1579年)に南条氏が織田氏の下へ離反し、翌天正8年(1580年)に吉川元春が伯耆へ侵出した際には兄の元続とともに八橋城を2波に渡って攻撃するも敗退した。
その後の吉川氏との戦いにおいては、岩倉城 (伯耆国)を守り奮戦したが、天正10年(1582年)に羽衣石城が落城すると岩倉城を守っていた元清も元続と共に逃れた。
天正12年(1584年)に東伯耆へ復帰した後は病気がちになっていた元続の後見人となり、元続に代わり政務を担当した。
天正19年(1591年)に元続が死去し、南条元忠が家督を継ぐと元忠の後見人になり、打吹城番として城内の屋敷に住み政務を行った。
(なお、この屋敷跡を「小鴨丸」という。
)朝鮮出兵の際には幼い元忠に代わり、自ら1500人の兵を率いて李氏朝鮮へ渡った。
その後、後見人の座を巡る争いで元忠との確執が生じた元清は、山田越中守の進言で豊臣秀吉によって小西行長の下へ預けられ、この時「南条姓」に戻したという。
関ヶ原の戦いでは小西勢に属して加藤清正の隊と戦うが、戦後、小西家が没落すると6000石を以って加藤清正の家臣へ転じ、剃髪して「元宅」と名乗った。
慶長19年(1614年)、大坂の陣では豊臣秀頼に属す事を願い大阪へ向かうが、その船中で発病、建仁寺での療養の甲斐なく、同年2月13日 (旧暦)に死去した。
(10月23日説もあり)墓所は熊本市禅定寺にある。

晩年に関する異説
元清の晩年に関しては諸説あり、前述した『南条氏盛衰記』に見える説もその諸説ある中のひとつである。
このほか、『伯耆民談記』によれば元清は関ヶ原の後、美作国へ逃れ、その地で死亡したという。
また、東京大学所蔵の「南条系図」によれば元清について「作州才原」に住むとしている。
ただ、この説は後世に書かれた書物に見られるものであり、これを証明する確実な史料が存在するわけではない。
一方で『南条氏盛衰記』説の方は傍証史料も存在しており、こちらの説の方が信憑性の度合いが高いといえる。

[English Translation]