少弐頼尚 (SHONI Yorinao)

少弐 頼尚(しょうに よりなお(よりひさ)、1293年(永仁元年) - 1371年(建徳2年/応安4年))は、南北朝時代 (日本)、室町時代の九州の武将である。
少弐氏当主。
父は少弐貞経。
子に少弐直資、少弐冬資、少弐頼澄。
法名は、梅渓本通。

1333年(元弘3年)に鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱が起こると賛同し、父の貞経に従って九州における北条氏勢力であった博多の鎮西探題北条英時を滅ぼす。
鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政が始まり、親政から離反した足利尊氏が九州へ落ち延びてくると頼尚は尊氏を迎えるために赤間関へ赴き、その最中に宮方に属した菊池武敏、阿蘇惟直に大宰府(福岡県福岡市)を攻められ父の貞経が戦死する。
1336年(建武 (日本)3年)に頼尚は足利勢とともに筑前国多々良浜の戦い(福岡市東区 (福岡市))で菊池氏らを撃破し、再び京都を目指す尊氏に従い畿内まで従軍する。

頼尚は恩賞として筑前国、豊前国、肥後国、対馬国などの守護職を与えられる。
足利家で尊氏と弟の足利直義が対立した観応の擾乱が発生し、1349年(貞和5年/正平 (日本)4年)に直義の養子の足利直冬が九州へ逃れると頼尚は娘を娶せて直冬を擁立し、九州における足利勢力である九州探題の一色範氏と争うが、直冬が没落したために領地の大半は没収される。
さらに吉野朝廷は後醍醐天皇の皇子である懐良親王を征西将軍として九州へ派遣し、懐良は南九州へ入り菊池氏に迎えられる。
1359年(延文4年/正平14年)には少弐氏は菊池武光ら征西将軍勢力と筑後川の戦いで敗れ、1361年には頼尚は大宰府有智山城を追われる。
1371年に没、享年77。

[English Translation]