尼子勝久 (AMAGO Katsuhisa)
尼子 勝久(あまご かつひさ)は戦国時代 (日本)の武将。
尼子経久の次男尼子国久の孫で、尼子誠久の五男。
幼年期
天文22年(1553年)、尼子誠久の五男として生まれる。
天文23年(1554年)、祖父の尼子国久、父の誠久ら新宮党が尼子晴久によって誅殺されたとき、小川重遠によって助けられる。
後に晴久が保証人となり、京都に出て東福寺の僧侶となった。
再興の道
永禄9年(1566年)、毛利元就の侵攻を受けて、尼子氏は滅亡した。
しかし永禄11年(1568年)、尼子家の再興を図る山中鹿介・立原久綱らに擁立されて還俗し、隠岐国で機会を窺うこととなる。
永禄12年(1569年)に隠岐から出雲国に入ると、尼子氏の旧臣の支援を得て出雲新山城に入る。
そして月山富田城奪還を目論むが、毛利元秋や天野隆重の奮戦により攻略できなかった。
永禄13年(1570年)2月、布部山の戦いで毛利軍と戦って敗北を喫し、京都へと逃れた。
天正2年(1574年)、因幡国の戦国大名・山名豊国の支援を得て因幡国からの出雲国侵攻を企てるも失敗に終わる。
その後は織田信長の傘下に入り、豊臣秀吉の中国方面軍に付けられた。
天正5年(1577年)には宇喜多直家の支城である播磨国上月城を攻略し、その守備を命じられた。
最期
天正6年(1578年)、尼子勝久・山中幸盛打倒の執念に燃える毛利氏は、宇喜多直家率いる宇喜多軍と上月城に迫った。
その総勢は3万人である。
豊臣秀吉は織田信長の命により、別所長治が籠る三木城攻略に専念することとなり(三木合戦)、尼子主従に上月城からの撤退を要請した。
しかし尼子主従はこれに従わず籠城し、毛利氏の猛攻に遭い、ついには降伏することとなった(上月城の戦い)。
尼子勝久は嫡男・豊若丸や弟の尼子通久、重臣の神西元通らと共に自害した。
享年26。
また、山中幸盛は捕虜となり移送される途中に斬殺された。
これにより大名としての尼子氏再興運動は潰えることとなる。
人物
陰徳太平記によると、毛利家に降伏したとき、山中幸盛ら捕虜となった家臣たちに対して次の様に述べたとされる。
「法衣をまとって一生を送るべきはずであった自分を一度は尼子の大将にしてくれたことを感謝する。」
「今後は命を永らえ、命を大切にするように。」
このように、家臣想いの一面があったが、戦国武将にはあまり向いていない人物だったようである。